第一・五章 夜の異世界ちゅーとりある

第11話 はじめての○○○

 部屋のテーブルには、スープ用の深皿とコップに水が一杯。

 勇者殿が食堂から調達してきてくれたものだ。

 そして、そのテーブルを前に、目を輝かせてお行儀よく正座する私――


「本当に食べるんですか、それ……」

「ああ。うちでも、いつもご主人にもらっていた」

「……そうですか」


 もはや何かを諦めた顔で、勇者はまた食堂へ引き返していった。


 さあ、お待ちかねだ。

 パッケージにハサミを入れ、ざらざらと中身を皿にあける。コンソメ風の強いかおりが、つんと私の鼻をくすぐった。


 ……ああ。

 もう、辛抱たまらん。


 この音と匂いだけで、もう口の中に唾液が溢れてくる。お尻の下では、白い尻尾がぶんぶんとじゅうたんの掃きそうじを始める始末だ。

 がばっ、と食いつく。

 美味い、と思う前にぶふぉっ、とむせ返った。


 ……口が、短い。


 人間とは、なんと不便な顔をしているのだろうか。これでは、せっかくのごはんが鼻や気道に入ってしまう。


「むう……」


 皿の隣に、銀色の物体があった。勇者が持ってきたスプーンというやつだ。これを使え、ということなのだろう。


 もちろん、私にだってそのくらいのことはわかる。ご主人が使うところなら何度も見ているし……


「むむむ……」


 でもこれ、どうやって持てばいいんだっけ?

 グーで握ったけど、何か違う。ごはんも上手にすくえなかった。持ち上げて、口を近づけて食べようとすると全部こぼれてスプーンから落ちていく。


「……ううう」


 繰り返すうち、自分がみじめで涙が出てきた。

 スプーンはやめよう。器用に使える手があるんだから、直接つかんで食べればいいじゃないか。

 どうして人間はそんなこともわからずに余計な食器など使うのだろう?


 ばりばり、むしゃむしゃ。


 今度はうまくいった。短い分だけ横に広い口で、カリカリの粒を噛み砕く。

 口の中でいっぱいに広がる、芳醇なフレーバーとざらつく舌触り。苦労しただけに格別の味わいだ。


 思えば、これは私にとって、自分の稼ぎでまかなった人生初の食事なのである。


 ……よく頑張ったな、偉いぞシロよ。


 自分で自分に感謝する。新たなる生の第一歩、ありがたさもまたひとしおだった。



「ふう……」


 コップの水を飲み干して、私は膨れたお腹をさする。


 がちゃり、とドアのノブが回る音――

 勇者が部屋に戻ったのは、ちょうど私が食事を終えた頃だった。


「どうです、そちらは終わりましたか?」

「ああ。おかげさまで、無事に済んだ」

「そうですか。では、消灯の前にお風呂をいただきましょう」


 風呂か。そういえば、夜になるとご主人も入っていたな。

 チュニックのえり元、両そですそとズボンのもも――衣服を上から順につまんで、私は自分の全身を検める。


「……いや、今日はいい。遠慮しておく」

「え? 入らないんですか?」


 何しろ、おろしたてで新品の体だ。洗うには早いだろう。


「まだそんなに汚れてないからな」

「ダメですよ。今日一日、結構動き回ったじゃないですか。きっと汗だってたくさんかいてます」

「むう……」


 汗、か。犬は人間と違ってそんなにたくさんかいたりはしないのだが……


 くん、くん。


 犬の嗅覚は健在だが、私の体はやはり変わっていた。毛穴の代わりに汗腺が増え、口ではあはあ言わない代わりに汗をかいて体温を調節する。

 肌に触れる衣服も湿気を含んでベタベタだ。あまり心地のいいものではない。


「ほら、そこにトーマが用意した着替えがあるでしょう。早く準備してください」

「……どうしてもか?」


 左右の立ち耳がしょぼん、とえる。


 犬もいろいろだ。水で遊ぶのが好きなのもいれば、そうでないのもいる。

 私は、風呂が好きではなかった。


「ご主人は大体、月に一度ぐらい私を丸洗いする感じだったんだが……」

「月に一度、って……そんなのダメに決まってるでしょう! さっきから、どういうご主人なんですか!?」


 勇者は軽く絶句した後、有無を言わさぬ勢いで私の後襟を引っつかんだ。


「さ、行きますよ」

「ぬううぅ……」


 二人分のパジャマを小脇に抱え、私を風呂場へ引きずっていく――



 人間の風呂とは、思ったほど悪いものではないようだ。


 柔毛が密生する犬の体とは違い、つるつるの肌は濡れてもさほど不快に感じない。体の構造上、シャワーの水が顔にかかりづらいのも助かる。


「流しますよ。目をつぶって」

「うむ」


 椅子に座った私の頭を、後ろから勇者がシャワーで流す。

 今、わかった。たとえ、水を浴びせられようと目さえ閉じていれば問題ない。私の風呂嫌いは、ご主人と言葉が通じなかったせいだった。


 勇者がシャワーのお湯を止めると、私はぶるぶると首を振って水を切る。


「わっ、ちょっと! 後で乾かすからじっとしててください」

「……そうか。すまない」


 怒られてしまった。そういえば、ご主人にもよくこれをやって怒られたっけ。


 シャンプーの次は、体の洗浄だ。勇者の手が、毛のない肌を泡付きスポンジで直に撫でていく。気持ちいいというか、なかなかこそばゆい。


「ほら、こっち向いて」

「ん? ああ」


 背中が終わると、胸からお腹、その下へ。

 こうして裸どうしで向き合うと、勇者の体はとても綺麗だ。


 真っ白な肌は瑞々しくすべらかで、全体にほっそりと無駄がない。

 腰回りから胸元にかけての女性的な丸みは足りていないが、同年代の我がご主人もまあ似たようなものだった。幼げで愛らしい顔立ちにはむしろ合っていよう。


 ああ、神様。

 勇者殿を可愛い女の子にしてくれてありがとうございます。おかげで、私は人間の雌になってもお風呂で体を洗ってもらえました……


 スポンジを動かす手が止まり、勇者は腕と足をすぼませる。


「……そんなに、じろじろ見ないでください。恥ずかしいです」

「そんなことないぞ。とても綺麗だ」

「もう……っ」


 勇者は赤くなって、ますます縮こまった。


 がらり――と、ガラス戸を開く音。


 誰かが入ってきたようだ。浴場は寮で共用なので、シャワーは全部で十口もあって洗い場や浴槽も相当に広い。


「あら」


 昼間に聞いた声だった。


「洗いっこなんて、子供みたいなことしてるわね」


 開口一番に見下してくる。

 第一印象そのままに、夜でもアクリーは意地が悪かった。


「余計なお世話です」


 勇者は言い返して、そっぽを向く。あちらはそれを鼻で笑った。


「へーえ。一人でお風呂も入れないお子様に、余計なお世話なんてあるのかしらね。せっかくもらった一人部屋も早速二人用になったって聞いたけど」

「うぐぅ……」


 イヤミを吐きつつ、わざわざ隣のシャワーに来るアクリー。ちょうど、私から見てすぐ前だ。


「……ふむ」


 確かに、勇者と比べれば、多少は膨らみかけている気もするが……他人様をお子様呼ばわりできるほどご立派な体とも思えない。

神徒プレイヤー〉は年をとれないと合法ロリの大司教は言っていた。

 こいつもひょっとしたら、見下せる相手が勇者しかいないだけだったりするのかもしれない。


「何よ……?」


 理解と憐みがこもった私の目を、アクリーが刺すように睨む。


「いや、別に」

「ふんっ。こんなお荷物を次々と押し付けられて、トーマ様がお気の毒だわ」


 アクリーは憎まれ口を叩いてシャワーのノズルに手を伸ばしかけた。


「私が、どうかしましたか?」


 誰のものでもない問いかけ――聞こえたのは、浴槽からだろうか。


「とっ、トーマ様!?」


 急に慌てだすアクリー。彼女につられて振り向いた先に、タオルを頭にのせて湯につかるトーマの姿があった。


「トーマ、いたんですか?」

「ええ。『隠密』のスキルを使っていると一人で静かに瞑想できるので……驚かせてしまいましたね」


 トーマは勇者に小さく頷き、湯の中から立ち上がる。


「私はそろそろ上がらせていただきます」


 ざばざばと滝のように流れ落ちる水、湯気の向こうに浮かぶシルエット。


 ……デカい。


 何がとは言わないが、あのボリュームと存在感を気配ごと完全に消し去っていたとすれば『隠密』のスキルとやらは実に大したものだ。


「三人で一緒にお風呂ですか。仲が良いのは素晴らしいことですね」


 湯船から出てきたトーマは、微笑ましげに私たちを見て的外れの感想を述べた。


「シロ殿には、初めての聖都でお困りのこともあるでしょう。アクリーも力になってあげてください」

「はっ、はい……トーマしゃまっ。力になってあげますです」


 何だ、この豹変ひょうへんぶりは……。

 アクリー、言ってることがまるっきり逆だぞ。勇者につらく当たるのって、もしやコレが原因なのか?


 まあ、カッコイイことは否定しないが。

 出るとこはどどんとしっかり出まくってる一方、筋肉質で締まった体つきは彫刻のように均整がとれていらっしゃる。おまけに、脚なんてモデルみたいに長いときた。

 そして何しろ、このド迫力。

 歩くだけで、まぁ揺れるわしなるわ。小娘どもなど圧倒されてただ目をみはるばかりの始末である。


「では、ごゆっくり」


 トーマが去ってから、呆けたアクリーが正気に返るまでは優に十秒ほどを要した。私たちの白けた視線に気づいて、はっと誤魔化すように目を逸らす。


「……ま、まあトーマ様もああ言ってらっしゃるし、今夜のところはこの程度で勘弁してあげるわ」


 何を勘弁するんだか知らないが彼女はシャワーのバルブを思い切りひねって、


「――熱っつぅ!?」


 一人で悲鳴を上げるお馬鹿はさて置き、初めて味わった湯船というものはこれまたエラく心地のよいものだった。

 肩までつかり、壁に背を預けて思い切り足を伸ばす。慣れない体に溜まった疲れが温もりの中へ溶けていくようだ。


 はあ、極楽極楽……


 ここが本物の天国だったら、私も苦労しないんだがな。

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