3-5
よく見ると、すごい大きいゲートが現れていた。各馬はそれぞれ与えられたスペースにその凛々しい体を収める。
「うわ、ほんとに端っこだよ」
まいちゃんが嘆くように言う。その声と視線を追いかけて見ると、一番外側の枠に先程のピンクの帽子が見えた。
「え、たしか有馬記念って大外枠勝てないんじゃないっけ」
「いや知らねーよ」
「いやそうだよ。十六枠ならほんとにゼロパーセントとかだったよ。競馬評論家みたいな人がなんかのサイトで言ってたけど、下園は勢いがあるがさすがにこの条件では勝てない。馬券に絡むことはほぼないだろうって言われてた」
「そうなんだ……」
それで人気も落ち込んでるのか。うーん、何十年も続く競馬の祭典で過去に遡っても例が少ないのなら、本当に厳しいのかもしれない。
でもまあ引いちゃったものはしょうがない。レースが始まるのは時間の問題だし、もうこれからはお兄さんと馬に頑張ってもらうしかない。
コースの対角線上、ゲートにすべての馬が収まって。
十六頭が飛び出す。
2500メートルのコースは観客席の前を二回通る。競馬というのは一瞬で勝負を決めるものと思われがちだが、ラストの直線に入るまでのポジショニング、レースの展開の速さなどがそれまでに争われる。
ピンクの帽子は現在八番手当たりか。大外から食い込んで来た割にはいい位置につけていると言えそうだ。
また奥に戻っていった。コースをもう一周回ってゴールに向かうのだ。蹄鉄が芝を蹴り上げる音が断続的に聞こえてくる。
あっという間に最終コーナーに差し掛かった。2500メートルも一、二分で走ってしまう競走馬たちを目で追いかける。場内実況もその声を張り上げるようにして盛り上げている。一頭中団からうまく外側に抜けた。
「お兄ちゃん!!」
逃げ切り体勢で先頭を走る馬の脚もいいが、その後ろから差しにかかる。五馬身ほどの差があるがそんなもの一瞬で詰めるのがこの世界。内側から二頭前へ出ようとしているが、その外側から稲妻のように突っ込んでくる桃色の閃光の方が明らかに速い。中団に埋もれた何頭かの馬はもはや止まっているかのようで、差しに来た三頭が逃げ馬を捉える。直線は残り数十メートル。ここでピンクが前に出た。自分より前からスパートをかけた二頭を抜き去り、ゴール手前で先頭の馬の手前に食らいつく。ほぼ並んだ体勢のまま、二つの弾丸は走り続けて。
そのままゴールに突っ込んだ。
「ど、どっち?」
まいちゃんは前のめりになって戦況を見つめていた。馬券を握りしめて携帯で速報を確認する人、イヤホンでラジオ放送を聞く人、もう馬券を上空にばらまいて撤退する人など様々だが、この子はそのどの人よりも食い入るように、意地と意地のぶつかり合いの世界を感じていた。
テレビではスロー再生でも流れているのだろうか。一着の判断は写真に委ねられたと聞くや否やワンセグを開いて情報収集に回ったとなりの人の画面を遠目から盗み見るようにして確認するも、画面の小ささゆえか結果がわからない。
ざわめきが大きくなってきた。三着に入った馬がまさかの16番人気だったのだ。16頭中の16番。この三連単を当てた人はおそらくほとんどいないだろうが、とてつもない高額馬券になりそうだという。
「お兄ちゃんと競ってたの、たしかいま競馬界で最強って言われてる外国人が乗った馬だよ。一番人気で、今日勝てば馬がG1三勝目。まだ四歳なのにすごい強くて、ここ最近はずっと一番人気だよ」
君すごいね。何歳?
「おいマジかよ」
と、ここで近くから声が聞こえた。何列か後ろの若い人からだ。早くからいろいろな端末を使って情報収集に励んでいた彼だが、ここで何かの事実に気づいたらしい。手に持った馬券と携帯の画面との間、視線を何往復もさせて確認する。
そして、そのざわつきは場内全体に広がった。一瞬静まり返って、次の瞬間。視線は場内でもっとも目立つ中心にそびえ立つひとつの板に向けられた。
――16。
ざわつきは悲鳴に似た歓声に変わった。地響きのような音が両耳に突き刺さって、絶えない。パッと光った二桁の数字は十数万の観衆を見事に驚かせ、感嘆させた。
どうしたらいいかわからなかったから、とりあえず俺はある人に目を向けた。どうやらその人も同じことを考えていたようで、あっけにとられたような、別の言い方をすれば少し間抜けな表情の彼女と目を合わせる。
「勝っ…………た…………?」
大歓声の中に紛れることなく、その声ははっきりと、まっすぐに耳に届いた。なんてことない呟きが聞こえたとき、俺はようやく事態を理解した。
勝った…………勝ったんだ。
「やったあー!」
ばふっ。腹部に衝撃。
「勝ったよ! 勝ったんだよ! お兄ちゃん勝ったよ!!」
まいちゃんは俺に向かって飛び込んで、顔を埋めながらそう叫ぶ。ばたばた。すごい興奮のしようだ。まあしかたないか。
嬉しそうに、勝った勝ったって小さく言い続けるまいちゃんの頭をなんとなく撫でた。そのことにびっくりしたように一瞬俺の顔を見上げたが、またすぐにもとの笑顔に戻ると、もとのように顔を埋める。なんだか、お兄さんには申し訳ないくらいに俺がお兄さんぽいことをしている気がしてすこし気恥ずかしくなったが、ぎゅーっとされて動けないのでそのままにしておく。
歓声がまた一段と大きくなった。何事かと思い周囲を見渡すと、どうやら勝利騎手インタビューが始まるようだった。
「あ、インタビューだよ」
まいちゃんにそう言うと、彼女はその方向を見る。
インタビューが始まると、無難に受け答えしていくお兄さん。途中ジョークを交えるなど慣れた様子だ。最近の若い人は肝っ玉が座ってていいな。すごいよ。
『では最後に一言、何かありますか?』
『そうですねえ…………』
お兄さんはそこで言葉を止める。ゆっくり観客を見回して、息を吸い込む。
『今日は妹が見に来てくれてたんで、絶対に負けられなかったんですよ。勝ててよかったと思います』
「えっ……」
その言葉は、俺とまいちゃんをきれいに驚かせた。なぜかって?
「言ってないのに、観に行くって」
そう、今日はアポなしのはずなのだ。突撃となりの晩御飯なのだ。
でも、お兄さんは気づいていた。まいちゃんが観に来てることに。
なんで、どうして。沸き上がる疑問詞たちに、俺とまいちゃんはしばらくその場で動けなかった。
レースが終わってから二十分くらいたった。観客がみんな駅に向かって歩くということはそのまま途方もない数の人が同じ目的地に向かうということだ。俺とまいちゃんはあと二十分をどう使うか考えていたが、とりあえず五時までに神奈川にたどり着けないことに気づいたまいちゃんが、サンタさんと相談するとか言ってどこかへ行ってしまった。しかし俺も初めてここに来たので、芝生の上で何かすることもできず、ただ柵に寄りかかった。
実はあともうひとつレースがあるらしい。人々の注目からは外れてしまっているが、それでも三割くらいの人が残って自分の運命を見守っている。
そうだよなあ、やっぱり純粋に応援なんてしないよなあ……
「おまたせー」
とか考えていると、携帯片手にまいちゃんがやって来た。
「東京駅まで送ってくれるって言うから、それで我慢してって。今度千葉県のサンタさんにお礼言わないと」
「管轄とかいうシステムね」
子供は全世界にいるはずなのに。サンタさんも職業なんだな。
「じゃ、どっか人目のつかないところに……」
「なんでこんなところ知ってるんですかねえ……」
連れてこられたのは、建物の中の階段の踊り場。だが、ここはなぜか人気がなくてひっそりしている。そんなに目立つところじゃないし、何回か通った上で見つけたとしか思えないのだが……どうなの?
「あと五分か……」
まいちゃんは時計を見る。東京駅から川崎駅までは電車で20分ほどだが、今は16時25分。結構時間的には厳しくなってきた。次のターンは17時からだし、それまでにまいちゃんはまた神奈川のどこかに帰らなければならない。
俺とまいちゃんは二人ならんで壁に寄りかかる体勢。まいちゃんは下を向いた。全体重を壁に預けると、そのまま口を開く。
「…………なんか、ごめんね」
顔は見えない。顔横に結われたツインテールの左側と前髪が、声の調子と対照的に、まいちゃんの表情に影を入れる。
「何が?」
このまま黙るのもなんだか申し訳なかったので、俺はパスする。
「私の、その……お兄ちゃんっていうか、私の行きたいところばっかりついてきてもらっちゃって……こんな遠いところまで」
あ、そういうことね。まいちゃんも気にはなってたのか。まあ確かに、初対面の男を千葉まで連れ回したんだから、そりゃそうなんだけども。
「ごめんね、つまんなかったでしょ?」
「そんなことないよ」
「本当?」
「本当だって」
「そっか……」
声量がものすごい小さくなってきた。
「じゃあさ、うーんと……」
まいちゃんはぼそぼそ続ける。今までの元気のよさはどこへやら。
すーっ、はぁーっ。でかいため息が横から聞こえた。その息には何が混じってるんだろう。冬の寒さに白く映えたその吐息がまた完全に消えたとき、まいちゃんはもう一回大きく息を吸い込んだ。
「私のこと、好きになった?」
北風が吹き抜けた。ような気がした。室内だからあり得ないんだけど、そんな気がした。
まいちゃんは顔を上げない。それどころか、むしろ顔を隠そうとしているようにも見える。胸の辺りでツインテールの先を人差し指でくるくるいじるしぐさはするのに、こちらを見ることはしない。
「それって……」
言いかけて、呑み込む。ここは戻っちゃいけない。元気だった――もしくは元気を演じていたのかもしれないが――彼女がそうやって言うからには、そこまでにかなりの決意をしたはずだ。それをかわしてはいけない。
「あっ、いやっ……ごめんね! 気にしないで――」
それでも、まいちゃんははぐらかす。俺がすこし空白を作ったからか。沈黙を困惑ととらえたのか。多少、いやかなり勇気を出して訊いたはずの問いを、無下にしてはならない。俺は一定の結論を出して、まいちゃんに向き直る。すこしびっくりしたように舞ちゃんが軽くのけぞる。
「好きにはなれない」
予想以上に力のこもった声になってしまった。
「えっ」
その声にやっぱり驚いたのか、ひとつそう言ったまいちゃんだったが、そのうちにまた元のように下を向く。
「…………そっか」
それは、どこまでも小さく、そして、儚く。
「そっかそっか、そう……だよね! あはははは! そっかそっか! そっか……」
まいちゃんは目を合わせてくれない。
「なんでこうなっちゃうんだろうな……」
はーあ。自分の中の何かと決別したかのように露骨に息を吐くと、まいちゃんは相変わらずこちらを見ずに尋ねる。
「一応、なんでダメだったか教えてくれる?」
その質問に、俺は数瞬迷った。が、包み隠さず全部言うことにする。それが多分まいちゃんが求めていることだから。
「やっぱり、私だけが楽しくなっちゃったかな。さっきの――午前中の男の子の時みたいに」
「いや、楽しかったよ」
「いいよ、気を遣わなくて」
「楽しかったよ。初めてこんなところ来たし、面白かった。新鮮だった。見るものすべてが新しいなんてことほど面白いこと他にないよ。それに、まいちゃんが楽しそうだったから、もっと楽しかった」
まいちゃんは左側――俺とは逆方向――を見る。その方向に何があるんだろう。窓もない、若干ひび割れた壁があるだけだ。
「でも、俺は何の努力もしてないから」
俺はまいちゃんの後頭部しか見てないが、続ける。いつかその顔がこっちを向いてくれると信じて。
「お兄さんは途方もない努力をしたんだと思う。騎手になるのも、今日ここで勝つのも、その努力の賜物だと思う。そんな姿を追いかけたくなるのはわかる」
そりゃ、俺だってそんな兄や姉がいたら追いかけたくなる。かっこいい。
でも。
「ただ、俺はまいちゃんにも自分自身にも何の努力もしてない。こうやってまいちゃんに会えたのも、なんだかよくわからない力のおかげだし、ここに来たのもまいちゃんのプランに則っただけ。自分ではここに来るまでに何にもしてない」
いつのまにか、右の手に力が入っていた。何の感情がそうさせたかわからないが、それでも右手が震えるようにぎゅっと閉じているのがわかった。
「だから――俺はまいちゃんを好きにはなれない」
そう言った瞬間、目の前の女の子が突然動いた。身体をくるっと半回転させるように音速で振り向く。最近見ることのなかった顔がこっちを向く。でも目は合わせない。その顔とは三十センチもない距離だが、まいちゃんは右足で地面を勢いよく蹴ると、その一歩か二歩の差を一瞬で埋めて、俺の腹に飛び込んだ。
「好きにはなれないって、違うんでしょ?」
小さな声でそう言うと、まいちゃんは顔を上げる。
「私に好きになってもらえないってことじゃん」
まいちゃんは右足で俺の左足を軽く踏む。若干痛い。
ようやく目が合ったまいちゃんは泣きそうな目をしていた。そっか、そんなんだからこっちを見てくれなかったのか。
「これ、あげる」
まいちゃんはポシェットにくっついた馬のストラップを手にとって俺に渡す。
「いいの?」
「いいの。また今度もらえるし」
まいちゃんは泣き顔の中に強引に笑顔を混ぜこむ。変な顔。
「じゃ、今度舞浜連れてってね」
「何でだよ」
「努力するんでしょ?」
悪い笑いかただなあ。いたずら心満載。
「あ、そろそろサンタさんが迎えに来てくれるかも。私もあのキラキラして突然現れるやつできるんだね! やったあ!」
「気持ちいいもんじゃないぞ」
てかシンプルに気持ち悪い。
「そうなの? それもそれで楽しみだね」
「そうですかい」
にへら。だらしないまいちゃんの笑顔を目前に、俺の視界は光に包まれた。
「おーい、聞こえますかー」
「…………ん?」
「おー、起きた起きた」
目を覚ましたのは東京駅のすぐ前だった。しかしよくもまあこんなでかい駅に人のいないスペースを探すよな。サンタさんってブラック企業なのかもしれん。
「じゃ、帰ろっか」
二人で駅に入る。オレンジを探して乗り込むと、そのまま何気なく時間は過ぎていった。目的地まであともう少し。元気な中学生ともあと少し。
川崎駅に着いてから、とりあえず俺が転移する場所としてまたさっきのエレベーターの前を選んだ。人がいない上にいたところでこんなところわざわざ見ない。すごい、やっぱり灯台もと暗しか。
「2分か……」
俺はここから見える時計台のデジタル表示を眺める。さっきまいちゃんからもらったぬいぐるみキーホルダーは持ってきた小さいリュックにくっつけてある。まいちゃんはそれを人差し指と親指でつまむと、しばらくそれを見つめて、それからまた手を離した。
「あのさ、いいよ? そんなに大切なものだったら、たかが一度会ったくらいの俺にわざわざくれなくても」
「ううん、いいのいいの。いいって決めたの」
まいちゃんは首を横に振る。
「そうだな……もしふとこれを見たときに、誠が私のことを思い出してくれるなら、それで十分。たった一回の出会いでも、それをなかったことにはしたくないから。それに」
まいちゃんは俺の両手をつかむ。
「いつでも、好きになってあげるからさ」
「それっ――」
「だーめ」
まいちゃんは人差し指を自分の口元に当てる。ふふっ、と軽く笑った。
「じゃあね」
まいちゃんは口元から顔の横に手を上げる。小さく左右に手を振るしぐさを見せたので、俺も同じ動作で応える。
そして、また視界を白光の輝きが奪った。最後に何か言おう。四時間会っただけで俺にここまでしてくれた彼女に、何かひとつ言わないと、俺の中のリトル桑原が許してくれない。
「まいちゃん!」
外から見た俺はどうなってるんだろう。きっととても見せられたものではないと思う。できれば人に見つかりたくないタイミングなのでまいちゃんにだけ聞こえる声で呼び掛ける。彼女が振り向く。北風が一旦止む。
「千葉、絶対行こうね」
返答が聞こえるより先に、意識が途切れた。
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