3-4

 くたばれリア充どもめ。いくらこの先に舞浜駅があるとはいえまだその気持ちは抑えとけよ。え? そのカップルお揃いのカチューシャみたいなやつとか、なんかストラップとか、パスケースとかさ、まだ出してくるなって。

 これが休日の東京湾岸の恐ろしさか。これ千葉の高校とか通ってたら間違いなく萎えてたな。土曜日通学するの辛すぎだろ。毎週こんなん見せつけられるんだろ? 無理無理。

「す、すごい人だね……」

 まいちゃんも思わず呟く。そうだよね、こっから競馬場行くカップルなんて皆無だろうしね。俺らが稀有すぎる。

 しかしまあこうもリア充っぷりを見せつけられると、さすがの俺も劣等感を感じざるを得ない。やっぱ高校生たるもの彼氏彼女くらいいて当然なのだろうか。 学年を見回しても童○率98%の空間にいる俺はやはり異質なのかな。100ではないってのがミソだよね。誰かさんみたいに裏切るからね。でも世間の標準はどれなんだろう。

 川を越えると夢の国の麓に到着する。みなさんの彼女さんたちが図ったようにテンションを上げ、もう何度も行ったであろう場所を指差してはしゃいでいる。まるで初めて遊びに来たかのように。あれかな、女の子はいざというとき初めてのふりをするってのほんとなのかな。まあ世の男がみんな処女厨かと言われればよくわかんないけどね。ただまあ楽しそうにしてるのはいいことですよ。はいはい楽しい楽しい。

 舞浜駅を突破すると、車内はとても空いた。物理的にも精神的にもスッキリした。座れたのでなおグッド。もう疲れた。いろいろ。

「はふぅー」

 それはまいちゃんも同じようで、たまった鬱憤を腹の底から吐き出すように息を吐くと、ドサッと座った。もうこれはリア充が公害だって決まったようなもんだな。

「ディズニーランド、行ってみたいなあ……」

 舞浜駅を出た電車の中、まいちゃんが降りたカップルを心底羨ましそうに眺めながら呟いた。

「行ったことないの?」

「ないよー。一回友達に誘われたけど、その日は用事が入っちゃってて行けなかった」

「用事って?」

「天皇賞」

 このブラコン妹が。

「すんごい楽しそうだったよー。写真見たけど、なんかこう、青春してるなーって感じで。いいなあー」

「そうかね」

「そうだよー」

 まいちゃんはそう言うと、俺の左横から見上げてくる。

「誠は行ったことあるの?」

「ない」

「そうなんだ! 高校生になっても行かないもんなんだね」

 それは俺のキャラ的な問題だけどね。

「彼女と行ったこととかないの?」

「彼女なんていたことないよ 」

「えー、いそうじゃん」

 社交辞令ですねわかります。

「友達とは?」

「男だらけで行ってもねえ」

「それはそれで面白いんじゃないのかな?」

「さあ?」

 創立記念日とか、この学校だけが休みの日とかは、よく周りのやつがそうやって遊びに行っている。それはそれで割と楽しそうだからいいんだけどさ、なんかそういうんじゃないんだよなって感じで。誘われたこともあるが、適当な理由をつけて毎回断ってしまうのだ。

 まいちゃんはそんな俺を何か企んでいるように見つめると、一回下を向いて、それからもう一度こちらを見た。

「今度、一緒に行こうよ」

「え?」

 微笑みを忘れないまいちゃん。14歳の汚れなき眼は、まっすぐにこちらを見ていた。どうするったって、どうもしない。俺はこれまで惰性で生きてきたんだから、そのスタンスを崩す気は毛頭ない。ましてや、目の前の女の子が求める理想の彼氏像には程遠いわけだし、それをどうこうしてこの子と付き合いたいかと言われれば、正直それもわからない。

「行けたら行くね」

 だから、こんな風に答えるしかなかった。俺の16年はこうやって作られたのだ。そんな俺の長く短い人生の結晶がこの七文字。

 まいちゃんは少し驚いたように二秒くらい口を閉じていたが、やがてまたもとの表情に戻った。

「じゃ、お願いね」

 舞浜駅はとっくに過ぎて、次の駅に差し掛かっている。


 船橋法典駅から競馬場までは連絡通路が延びていて、俺とまいちゃんはそれを通って競馬場まで足を運んだ。連絡通路とはいえそこそこの距離があるのだが、道に迷わないだけマシといったところか。

 しかしまあここまで来ると学生の姿はほとんどない。おっさんが主で、たまにお父さんくらいの年代の人も歩いているが、ほとんどが男性だ。なんかこの前テレビで競馬場デート特集みたいなのもやってたけど、無理だろそんなの。俺だったらまずそんなコースは作らないね。つまり競馬場デートってこういうことでしょ? 不安と謎でドキがムネムネですよ。

「あ、これお兄ちゃん」

 通路脇に置かれた看板の画像に、大きく馬とそれに乗る騎手が描かれていた。

「へえー、有名人じゃん」

「へへー、すごいでしょ」

 走っているときの写真のようだが、ゴーグルの裏に隠された目は何を見ているのだろう。

「まあ、この時は負けちゃったんだけどね」

「負けたときの写真をこんなにでかでかと使うのかよ」

「あ、そう言われると違うかもしんない。どっちだろ。どっちだっけ」

「俺に聞かれてもな」

 だから何も知らねえっつの。

「お兄さんには今日観に行くって言ってるの?」

「言ってないよ。観に行くって事前に言ったときは必ず負けちゃうから」

 かわいいなお兄さん。


 中山競馬場に着いたのはそれから何分か後だった。結構歩くんだけどこれ。よく通路を作る気になったな。

「馬券は買ったことないんだよねー」

「当たり前だろ」

 買ったらあかんのですよ。あんた何歳なのさ。

「こっちこっち」

 足早にまいちゃんが向かった先はメインスタンドとでも言おう空間だった。既に何万と言える人々が詰めかけており、その注目度はやはり一級品。

「おっ、下園の妹さんじゃんか」

 ふと声がして後ろを振り向くと、そこには一人のおじさんがいた。いかにも予想屋って感じのおじさんだ。

「あー、白根さん! こんにちはー」

「今日は大外枠で厳しいかもしれないけど頑張ってね。俺もひとつ、やっておいたから」

「はーい。頑張るのはお兄ちゃんですから」

 一通り話終えて、まいちゃんはまたこっちに戻ってくる。

「知り合い?」

「そう。お兄ちゃん初勝利の時にお兄ちゃんの馬に単勝三千円入れてくれた白根さんだよー」

 筋金入りのギャンブラーだな。

「あのときはお兄ちゃんまだ無名だったから、相当儲かったらしいよ。私そういうのはよくわかんないけど、でもありがとって言われたからどういたしましてって返したよ」

 人に好かれるタイプの女の子なんだなこの子は。このにくめなさというか天真爛漫というか、この子に対してマイナスの感情は抱かない。かれこれ数時間の付き合いだけど、もう初対面とは思えないほどに抵抗がなくなっている。

 芝生がどこまでも続く走路の前、最前列を確保できた。最近は競馬に対するイメージをよくしようとしてさまざまな試みがなされているらしく、家族連れもちらほら確認できる。単純に馬を見て喜ぶ息子の横、馬券を握りしめて息を呑む父親の姿があるあの家族にはすごい利害の一致が起きている。ああ、あれが社会の縮図か。

 兄弟、家族。そういえばこの子はどうして一人で来たんだろう。せっかくの息子の晴れ舞台のように見えるけど。

「まいちゃん、お父さんとかは見に来てないの?」

「なんで?」

「なんでって、こんなにいいレースに出させてもらって、お父さんも嬉しいんじゃないの?」

「そうかなあ」

 まいちゃんは首をかしげる。

「嬉しくはないと思うよ」

「なんで?」

「だって…………お兄ちゃん、半ば家出みたいにこの世界に飛び込んできたから」

 ……家出?

「それ、聞いてもいいの?」

 俺の問いに、まいちゃんはまた首をかしげたが、今度はその首を縦に振った。

「うん。聞いて」

 まいちゃんは柵に寄りかかる。

「競馬学校に通うということは、高卒認定がもらえないってことなの。もらえるところともらえないところがあるけどお兄ちゃんはもらえないところを受けることにしてた。お父さんはその事に反対だったの。もしも騎手の世界でうまくいかなかったらどうするのかって。大学はおろか高校も卒業できていないお前に再就職の道はないって言われてた。それに、人の賭け馬になるのも嫌だったみたい」

 まいちゃんは懐かしむように遠くを見る。

「『誰もお前のことを純粋に応援はしない』っていうのがお父さんの意見だった。頑張れって声援はお兄ちゃんじゃなくて、お兄ちゃんが頑張れば自分のお金が増えるってことで送られる。他のスポーツ選手と違う、下心のある応援に包まれて、お前は嬉しいか? って、ちょっと怒りながらお父さんは言ってた」

 でもね。まいちゃんは続ける。

「『その中にも絶対に俺を応援してくれる人はいる。俺が初めて見たレースで、俺は金を賭けた訳じゃない。でも不思議と応援したくなった。後ろから差してくるジョッキーに頑張れって言いたくなった。そうやって純粋に応援してくれる人もいる。絶対いる。たとえ一人でも、俺はその一人のために走りたい』って、まっすぐに言ってたよ。勝手にしろって投げやりに言ったお父さんに、お兄ちゃんはありがとって言ってた」

 周囲のざわつきが大きくなる。もうすぐ始まるのだろう。出走まであと五分となってきた。

「お兄ちゃんはG1レースに勝つと家族に一人ずつ馬のぬいぐるみ――ここについてるこれなんだけど、これを渡すの。お兄ちゃんは特になんとも言ってないけど、たぶん何かの気持ちの印なんだと思う。私とお母さんがもらってるけど、あと一勝、あとひとつでお父さんに渡せる。それでみんなにこれが渡ったとき、何か変わるんじゃないかって、ちょっと思ってたりする」

 まいちゃんは青い空を見上げて、そしてこっちを向いて笑顔になった。この笑顔はもう何度も見てきたが、今の顔だけちょっと、その裏側にある気持ちが見えた気がした。

 そしてその顔は、お兄さんの話をするときにしか出さない。

「お、出てきたよ」

 一周千メートル単位の広さを誇る競馬場の隅に、今から競いあう十八頭の馬が現れた。あれで何メートル離れたところなんだろう。いやはや、競馬場って広い。

「あのピンクの帽子がお兄ちゃんだった気がするよ」

「うろ覚えなの?」

「うーんと、この前が何色だったっけ……えと……てへぺろ」

「いやいや」

 お兄ちゃん愛はそんなもんなのか? 意外と適当だな。

「なんかね、海外の騎手さんにすごい強い人がいて、日本人の先輩がそれに食らいつこうとしてて、お兄ちゃんはその中でちょっと弱い馬に乗ることになったから厳しいって言ってた。人気も十番目だし……でも、やってくれるよたぶん」

「そうか」

 悪いが本当に何もわからないのだ。どこの誰が強いとか言われてもさっぱりだからね。

 何かの台が上に上がって、それに乗った人が旗を振る。ファンファーレが鳴り響いて、観客のボルテージが上がる。一年の締め括りレースの始まりだ。

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