2-6

「なんですか」

 男は探偵を明らかに怪しいものを見る目で見ていた。まあそうだよね。この状況どっちが怪しいかと言われたら明らかに探偵だもんね。

「万引きとか疑ってます? やってませんよそんなの」

「そんなことで呼び止めてる訳じゃない。あんたはそんな服をただで貰ってしまおうなんて思うほど貧乏じゃないからな」

「……」

 お互いに目が変わった。関根さんは明らかに不審がっている。自分の情報が知られているとわかったらそれはそういう反応になるわな。

 一方、探偵の方は鋭い目をしていた。これから証拠を突きつけて犯人を崖の淵に追いやろうとでもしているかのような、鋭い目。

「……だから、なんなんですか」

「私は後藤翠。探偵さ」

「そりゃ見りゃわかりますけど」

「私は今月、とある依頼を受けた。夫の浮気調査だ」

「うわ……!?」

「最近帰りが遅かったり、奥さんに対してつっけんどんだったりいろいろあったそうじゃないか」

「誰からそんなこと」

「奥さん自身だよ」

 探偵は自信ありげに言う。関根さんはだんだん顔が青くなってきた。手にした藍色のコートをハンガーにかけて戻して、関根さんはこちらに向き直る。

「場所を変えましょう」

「最初からそのつもりだ」

 あーあー、こりゃ完全に探偵ペースだわ。

 関根さんはバッグを持ち直すと、はあ、とため息をひとつついて歩きだした。

「あっ、ちょっと待て」

 関根さんが店を出ようとしかけたところで、探偵は呼び止める。

「そのコートは買っていった方がいいんじゃないか? その色、この店にしか売ってないだろ?」

 意味ありげに探偵がそう言うと、関根さんは下唇を噛んだ。

「……全部、わかってるのか?」

「もちろん」

「そうか……」

 関根さんは諦めたような表情になった。バッグから出てきたのはやはりブランドものの財布のように見えた。

「32400円になります」

 なんちゅう額だよ。俺のおこづかい一年ぶんじゃねえか。服ひとつにそんな……ひええ。

 丁寧に包装されたコートが入った紙袋を右手に戻ってきた関根さんは、それでも少しほっとしたような表情になっていた。

「じゃ、行きますか」


 店を出た俺らは、そのまま一階に降りた。探偵が先頭を切って歩いてしまったからだ。

 最初からそのつもりだ、という彼女の言葉が意味するのは、とりあえずどこかで話そうとでも思っているということだろう。まあ、あのまま店の中で話していてもなんだか迷惑だし落ち着かないしね。

 途中、俺と探偵の間に人が入ってきた。誰かと思えばさっき人探しを手伝ってもらった方だった。彼女はこちらを確認すると会釈して、そのあと探偵と少し話をしていた。何話すんだよ。明らかに話しかけちゃヤバいやつだと思うけど。

 一階に着くと、探偵は外に出た。さっきとは違う出口に出たのだ。そこはちょっとした広場みたいになっていて、何人か人がいた。

「さて」

 探偵は両手を腰に当ててくるっとその場で半回転してこちらを向く。

「順を追って説明する」

 ごくり。俺の横に立った関根さんが唾を飲み込んだ音が聞こえた。そりゃまあ緊張の一瞬だよな。知らない間に自分を疑った奥さんに探偵を用意されたんだから。俺だったら110番の用意をするね。どっちが正義だよ。

「今月、私のところに一本の電話がかかってきた――まあ正確には私じゃなくて親父の方にだが――その内容は、『旦那が浮気してるかもしれない』というものだった」

 ビル風が吹き抜ける。探偵は風にあおられた帽子を片手で押さえる。

「私は関根さん自身と直接会って話をした。そこで先ほど言ったようなことを伝えられ、私は調査を始めた。そして今朝、あなたが家を出たと聞いた私は、横浜駅周辺であなたを探した。で、今さっき見つけた、というわけだ」

「私が浮気をしているって証拠は?」

「ない。そのうち見つけようと思ってここにいたのだからな」

「なるほど。じゃあ証拠不十分なのでは?」

「いやいや、十分だよ」

「なぜ?」

「そのコート」

 探偵は紙袋を指差す。


「結論から言えば、あなた、関根隆幸は――浮気なんてしてない」


「えっ」

 思わず俺は声を漏らした。浮気してない? 浮気調査なのに、浮気してない? え、じゃあこの四時間なんだったの? なんだよ、なんのためにここまで来たのかいよいよわかんなくなってきたぞ。これ彼女探しの旅じゃなかったか?

「あなたはなぜそのコートを選んだ?」

「なぜって?」

「だから、なぜ『他の店ではなかなか取り扱っていない藍色のコート』を選んだんだって話だ」

 関根さんがプレゼントのために選んだであろうコートは、他の店で売っていなかった藍色のコート。黒でもベージュでもない、藍色のコート。

「あっ、だからお前、最初の店で『これしかないのか』って訊いてたのか」

「そうだ。正直、貴金属店で目撃情報がなかった辺りからこんな結果なんじゃないかなって想像はしてたんだが……」

 探偵はふてくされたように言う。

「もういい、関根さんが答えようとしないから全部お前に答えてもらって解答編とするよ」

「俺?」

「そうだ。ひとつ、なぜコートを買ったのか」

「知らん」

 俺何も考えてないからな。推理とかするのはあなたの仕事なんじゃなかったんですか?

 えー、コートを買った理由……なんだろう。関根さん、コート、クリスマス……繋がるヒントが思いつかない。

「はあ……本当にわからないのか?」

「だから俺は探偵志望でもその助手志望でもないっつの」

「ああ、そうだったな」

 探偵は含み笑いを見せて続ける。

「じゃあヒントを与えよう。朝お前に聞かせた奥さんの話だ」

「奥さんの話って、あのウォークマンに入ってた?」

「そうだ。よく思い出せ」

 え……正直聞いてなかったしなあ。でも、なんか旦那さんへの愚痴がほとんどだったと思うけど……

「……わかった、また流すよ」

 諦めた探偵はそう言うとポケットから再びウォークマンを取り出した。すまんな。

『とにかく、最近私への当たりもきつくて、なんだかそっけなくなっちゃって。この前なんて「会社どう?」って訊いただけで慌ててましたからね。頼んだものも買ってくれないし……オフィスラブにでも目覚めたんじゃないですか? ああ、朝早く出るとかはないです。もともと出勤の五秒前くらいに着くタイプの人ですから。うぅ寒い。新しいコート欲しいなあ…………暖房壊れてるんですか? それは大変ですね……ああ、あの人、朝が苦手なんですよ。九時集合のデートにはほぼ遅刻してきました。まあそれも何年も前の話ですけど』

「愚痴ばっかりじゃん」

「そうだな、半分、いやほとんどが愚痴と見ていいが、二ヶ所だけヒントがあるんだ。わかるか?」

「は?」

 二ヶ所? そのヒントは関根さんが浮気をしていないという根拠になりうるもの。ほとんどが浮気をしているって根拠になっているが、この中に全く逆のヒントなんて――

「あっ」

 待て、もう一度頭から考えてみろ。愚痴の中に、そうでないものがある。


「――コートが欲しい」


「正解」

 ようやく探偵が含み笑いから微笑みに変わった。

「ついでに、宝石はラピスラズリ、ハンドバックは瑠璃色だ。これがどういうことだかもうさすがにわかるよな」

 ラピスラズリと瑠璃色、そしてさっき買った藍色のコート。この三つの共通点。そんなの考えなくてもわかる。

「……関根さんは、藍色が好き、なのか?」

「さあ? そこから先は一番詳しそうな人に聞くしかなかろう」

 探偵はここで首を俺から関根さんに向けた。関根さんは途中から感心したように目を見開いていたが、一度明らかにほっと胸を撫で下ろすしぐさをすると、口を開いた。

「もちろん、彼女はこの色が好きなんですよ」

 関根さんの声は明るかった。

「結婚するときに、ラピスラズリの宝石をプレゼントしました。指輪も渡したんですが、どうにもそれだと普通かなと思ったのです」

 なんとも金持ちな話だ。

「その時に、彼女がこの色が好きだということを知りました。偶然の話でしたが、私はそれを常に意識して来ました。実は車もその色です」

 そのあとは、俺でも予測できる話だった。クリスマスプレゼントのために横浜にコートを買いに来た、と。

「恥ずかしながら、私はサプライズのつもりでこのコートを買ったのです。クリスマスに何かを渡すなんて結婚してからは特になくて、今年も全く何も考えていなかったのですが、ある日、妻に言われたのです。『コートが欲しい』と」

 いわく、そのまま買うよりプレゼントにして渡す方が面白いと思ったそうだ。しかし、そういう魂胆を隠しつつ普段の生活をするのがどうにも苦手だった関根さんは、とりあえず残業したり本屋で立ち読みしたりしてなるべく奥さんと顔を合わせないように夜遅くに帰宅することにしたらしい。とりあえず残業て。社畜すぎないか。

「よかれと思ってやったことなのですが……まさかここまで不安がられていたとは……ご迷惑をお掛けしました」

 関根さんが頭を下げる。

「いや、結構。私としてはいい練習になったのでね」

「練習?」

「ああ。私にとって初めての案件だったのでな」

「初めてなんですか、それは――簡単でしたか?」

「気づけば、かな。このデパートにはよく来るのか?」

「そうですね、二人で何か買ったりするときはここに来ます。だからここは意外と思い出の地だったりするんですよ」

 関根さんは遠くを見上げる。俺もつられて空を見ると、本当に雲ひとつない快晴が広がっていた。


 そして、関根さんは帰っていった。探偵と報酬の確認をしていたらしい。途中、「本当ですか!?」なんて悲痛な叫びが飛んできたけど、まあそれは置いておこう。やっぱ勝手に三百諭吉ーズは使わない方がいいよね。どんだけ怪しまれてたんだよ関根さん。

 時刻は一時五分前。そろそろこの何の意味もなかった探偵ターンも終わりだ。よーしよし。次はしっかりとした本物の彼女候補を頼みますよサンタさん。

「よし、帰るか」

 探偵はそう言うと、横浜駅に向かって歩いていった。どうやら彼女の待ち合わせ場所はいつも横浜駅らしい。

「なんかまた超常現象が起きるから人目につかないところ行けってサンタさんが言ってるぞ」

「出た、その通知システム」

 まあ確かに、突然道の真ん中で人が消えたらビビるもんな。俺だってまだまだ横浜の街を歩きたいよ。一旦都市伝説になったらもう行けないからね。

「じゃあここでいいか」

 デパートの裏道的なところで探偵は立ち止まる。さっき関根さんの無実を晴らしたところから五メートルしか離れていないが、それでも人気がゼロになった。五分しかないし、確かにここでいいや。

「実は、今回みたいに調査対象に直接答えをぶつけるのは珍しいんだ」

「えっ、そうなの?」

「そうだ。探偵は別に犯人逮捕を目指していない。それをやるのは警察だから、私たちはそのお手伝いだけしてればいいんだ。浮気調査なんてのはもっとだ。さっき言ったようにその場で暴れられたり、場合によっては人間関係をすべてぶち壊しかねない。そんなこと私は望んでないんだ。だから今回も対象の写真だけいくつか撮って、それで事実だけを依頼者に伝えるつもりでいた」

「マジかよ、じゃあテレビとかでよく見る『お前が犯人だ!』とかってなんなの?」

「あれは警察の面前でやってるから別にいいんだ」

 なにその裏情報。これを知れただけでも今回はよしとするか。うん。そうでもしないと持たない。

「じゃあ、なんで今日は直接伝えたんだ?」

「そりゃあ、あのコートがサプライズプレゼントだからな」

「あっ、そういう」

 そっか、結果を奥さんの方に先に伝えるとサプライズプレゼントがサプライズじゃなくなるのか。なるほどね。粋な計らいじゃないか。

「そういうことだ。転送まであと一分を切っている。準備しとけ、助手さんや」

「は?」

 今助手さんって言ったよなこいつ。

「助手になるなんて一言も言ってねえぞ」

「言っただろ」

「いつだよ」

「そうだな、どうやらお前さんは私を探して結構奔走したらしいじゃないか。途中で知らない人に声をかけたらしいじゃないか」

「なんでそれを……ってさっき会ったのか」

「そうだ。どうやらあの人たちにはお前の身分を助手って伝えたらしいな」

「あ」

 そういえばそんなことも言った気がする。けどそれって嘘も方便的なやつじゃないの?

「そういうことだ。あと十秒だ。いつうちに来ても採用にしてやる。待ってるぞ」

「絶対行かねえからな」

 ったく、一人分損させといて何を言ってるんだこいつは。そんな都合のいい話があるかよ。

 いつものような含み笑いが見えた。見えない力に少し重心をずらされてバランスを崩した俺は、光って白んでいく視界の真ん中で手を小さく振る探偵に、俺は今日イチの微笑を送った。

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