一霊四魂②
胎児よ、胎児よ――。
なぜ、踊る――。
母親の心が分かって――。
恐ろしいのか。
桂男は考えていた。
世界は病んでいると――。
健全とは言い難い人々の思惑が月にまで浮上し、それを目の当たりにした自分の星は、地球を病的だと判断し、その身を引くことにした。今も月は、地球から徐々に距離を取りつつある。
桂男は、悲しんだ。ああも美しい星であるというのに、重力が愛を引き寄せて、悪意が浮き上がっている状況を哀れに思ったのである。
桂男は、ただただ見ていた地球に愛着を持っていた。自分の世界が地球との縁を切ろうとすることが残念に思えた桂男は、身投げしたのだ。
地球に落ちていく月の妖怪は、単身、悲しみを纏いながら重力に引かれ落ちていくと、おぼろげに感じていた『引力』を全身に感じ、地球の生命の根っこを感じ取ることができたように思えた。
やがて、地球の大気圏を抜けた時、偶然ともいえる事だったが、四谷ココロという少女がビルの屋上から身投げをする瞬間を目にした。
彼女は堕ちながら、空に浮かぶ満月を見つめ、その胸中に渦巻いていた辛さと悲しみをその身から放っていた。
桂男は、その姿がまるで自分と同じように思えてならなかった。悲しみに墜落していく乙女から目が離せず、桂男はその、すでに死んでいるはずだった少女を救ってしまったのだ。
桂男は寿命を吸う妖怪だ。すなわち、エモノの寿命を感じ取ることもできる。そんな彼は、救った少女を見て運命を捻じ曲げてしまったと後悔した。
ほんの些細な気まぐれで、死ぬはずだった少女を救ってしまったのだ。彼女はもう、寿命が尽きていた。生きるべき運命になかったのだ。
桂男は自分の気まぐれで寿命の外側にあぶれてしまった少女に詫び、そして、彼女の願いを叶えようと誓ったのである。
満月の夜から、翌朝になり、四谷ココロは自分が身投げしたはずであるのに、自室のベッドで目を覚ましたことに驚いた。
自殺に失敗したのかと、己の腹を殴りつけたくなった少女はその手を振り上げた後に、無気力に下した。
彼女は、愛する人とは別の男の子を孕んでしまっていた。それが何事よりも彼女の全てを破壊したのである。
彼女はもう一度自殺を決意した。
そのまま学校へ行くと、普段と変わらぬ一日が過ぎていき、自分が自殺した事自体誰も気が付いていないようだった。ビルの上から身投げしたという事実そのものが消え失せていたのだ。
では、自分は自殺などそもそもしなかったのかもしれない。そんな風に考えて、今度こそ実行に移して見せると彼女はもう一度、駅付近のカラオケビルの屋上へと向かう事にした。
このカラオケが入っているビルは、管理がずさんなため、容易く屋上に上がれることを知っていたのだ。
自殺の場を学校にしようかとも思った。だが、それは真に愛する部活の顧問にも迷惑をかけるだろう。それにできるならば、彼女は自分が汚されたという事を愛する人に知られたくはなかった。この妊娠してしまったという事実を消し去ってしまいたかったのだ。
自分を身ごもらせた相手の、担任教師は太々しくも平然と教壇に立ち、普段通りの教師を演じていた。
ココロからは、担任の八房が何を勘違いしたのか分からないが、ココロが八房を好きだと考えていたらしい。
職員室によくやってきていたココロの目的は、吹奏楽部の顧問なのであったが、担任の八房はそれを自分目当てだったと勘違いしたのだ。
そして、八房はその勘違いを暴走させ、ある日彼女を強引に抱いたのだ。
ココロは、八房を憎んだが、愛する人の事を想う気持ちが勝った。
大好きな顧問の先生に、自分が汚されたという事を知られたくなかった彼女は、八房とのことを誰にも話すわけにはいかなかったのだ。
それから、ココロは担任の教師の気色悪い視線に震えながらも毎日学校へ行った。
ココロが通報しない事を、都合よく考えた八房は、その後も何度かココロに迫ったが、ココロは瞳を閉ざし、耳をふさぎ、呼吸を止めてその時を凌いでいた。
彼女の通学する理由は、もう部活の顧問のためだけでしかなかった。
だが、その部活も八房との事を思い返せば、顧問の顔をきちんと見る事ができなくなった。そして、トランペット演奏にもそれは現れて、しまいには、その顧問からきつく叱られてしまう事になったのだ。
そんな日々の中、更に最悪の事態が発覚した。
最近体調がすぐれないと思っていたココロは、もしやと思って妊娠検査薬を使ったのだ。結果は陽性だった。
妊娠しているという事が発覚したのだ。
そして、打ちのめされたココロは身投げを決意した。
だが、どういうわけか、彼女は死なずに自分の部屋で目覚めた。
きっと、自分の決意が弱かったせいだと、ココロはもう一度自殺するために、決意を固めた。
その日、部活が終わり、顧問に叱られたココロを部員の友人が慰めるようなやり取りを電話でしてから、ココロは動き出した。
自宅には向かわず、もう一度カラオケのビルへと向かったのである。
そして、屋上にたどり着いた時、彼女はそこに先客がいることに驚いた。
屋上には、見知らぬ女性が揺らめくような不確かな存在感でそこにいたのである。
「……あ、あの」
ココロは、自殺をしに来たとは言えず、またどうしてここに女性がいるのだろうと訝しんだ。
対する女性は白い肌をした細身の女性で、その表情は能面のように無表情だったのでなんだか不気味な感じもした。だが、不思議と彼女とはどこかで会ったような気もする。普段なら警戒するような他人に対して、まるで血を分けた兄弟のような感覚が底のほうにある。
「寿命の外側にはみ出た事を謝りたい」
「え?」
いきなりその女性は表情を変化させずにそんな風に言った。言われている意味が分からず、ココロは狼狽えた。そもそも、今の言葉が自分に対して投げかけられたものかどうかもあやふやに感じた。
「死が、望みなのか」
白い女性……それはすなわち、地球人を監視して得た情報から構築したコピー状の百田サクラの姿をした桂男は、ここにココロがまたくるだろうと考えて待っていたのである。
彼女の望みは、死。苦しみからの解放だった。
桂男の言葉に、ココロは、なぜか素直に頷けた。この相手に対して、取り繕った言葉を返しても無駄なように思えたからだ。
「お前は、一度死ぬところだった。それを私が救ってしまったのだ」
「あなたが……?」
「その、詫びをしたい。お前は、飛び降りる際、月に願った。それは死ではない。死んでいる最中に、顔を出した本当の願いを、私は叶えよう」
「……私の……本当の……、願い?」
ココロは、死んでしまえばもう終わりだと思っていたから、死以上の願いを見落としていた。こうして、精神の奥底を確認するように問いかけられて、死の間際、己の中に浮かび上がった恨みに気が付くこととなった。
「八房を……許せない……」
なぜ、自分だけが苦しみ、その原因を作ったあの男はいつも通りの生活を続けているのだ。
おかしいじゃないかと、ココロは悔しくて涙があふれてしまった。
私が死ぬのだから、あいつだって死ぬべきなんだ。そう、呪ってしまった。自殺を覚悟した時、清らかな心でいることなど、作り話でしかない。その心は歪みに歪んで、凶悪な力を生み出すほどにもなるのだ。
だから、桂男は悔いた。矢張りこの世は病んでいるのだと。そして、自分も地球に落ちてしまった以上、その病を抱え、広めだす感染者に過ぎないと。
桂男は、ココロを願いを聞き入れ、八房の殺害を誓う。そして、ココロは、自らの身体の浄化を求めた。
綺麗な身体で死にたいと述べた彼女は、己の胎内に芽吹く、望まぬ命を享受できなかったのだ。まだ人のカタチを成していない内に自らの中から取り出してほしいと彼女は告げた。
桂男は寿命を食らう。
地球に落ちてきたことで、消耗したエネルギーの補給のために、寿命は不可欠だった。
だから、生まれ始めた命の寿命を頂くことにしたのだ。
――その芽吹く命の願いをも受け入れる事で――。
「待ってくれッ! 百田さんっ……!」
物思いにふけっていた桂男は、後ろから掛けてくる青年の声に振り向いた。ぎゃあぎゃあと、泣きわめくような強い風が吹いているようだった。
「私は、モモタサクラではない」
「……ほんと、なん、だ」
「私は桂男。月から来たエイリアンで間違いはない」
「……そういわれても、僕から見れば、あなたは百田さんにしか見えなかった」
青年、千原マサオは汗を垂らして、ぎこちなく笑った。まだ、半分は信じていないような表情だった。
「ま、待っててくれたのか? 僕の事」
「……気になっていた」
「……な、なにが?」
「なぜ、私を救った?」
マサオは、気まずそうに、あるいは自嘲するように、薄く笑った。
「それは……百田さんのことを……好きだったから」
「だが、お前は私がモモタサクラではないと分かってからも、あの組織の妖怪から私を救った」
「……あそこで動かないと、自分が自分でなくなるみたいに思えたんだ」
「お前は模造品ではない。お前はお前だ」
「そういう意味じゃないよ。……僕は決めたことをやり通したいと思ったんだよ。そうじゃないと、どこまで行っても、僕は空気だ」
マサオの決意は、正しいとか間違いとかを通り過ぎた先のものにあった。
自らを変えたいと考えていた彼は、結局自分の行動が空回りになっていたとしても、それが自分の起こした行動である以上、責任があると考えていた。
きっと、自分が何かの行動を起こさなければ、魂は社会とつながらずに、宙ぶらりんのままのような気がしたのである。
行動すること。それがどんなにちっぽけでも、己が動くことで、社会との接点が摩擦を生み、人の流れにうねりを作る。
そうして、繰り広げられる『世の中というドラマの登場人物』なのだと、マサオは訴えたかったのだ。
無駄な行為など、この世にはない。間違った行動だったとしても、それには意味が生まれ、社会に影響を与えるはずだ。自分は社会の一員なのだという自覚が、そうありたいという青臭さが、桂男を救ったのである。
「この世は……矛盾だらけだ」
「……そうかもしれない」
桂男は、目の前の男の言葉に、いよいよ分からなくなってきた。
「なぜだ。毒性を振りまきながら、なぜ社会を肯定する。否定する人間ばかりの世の中で、それは奇妙でしかない。お前は社会に対し、順応したいと思いながら、人の総意からは外れている」
「そんな、難しいこと言われても、わかんねー。生きてるだけで精一杯だから」
生きるだけで精いっぱいという言葉に、桂男はピクリと反応した。気に入らない言葉だと感じたのだ。
「生れ落ちる事を嫌われた者もいる。こんな世界はつらくはないか」
四谷ココロの中にいた、生命のカケラのようなそんな存在すら、世界に拒絶されたのだ。生れ落ちた者は、生きているだけで精いっぱいなどと言うのは贅沢だと鼻白んだ。
「それが、八房を殺す理由なのか?」
「違う。八房の死はココロの願いだ。私は妖怪としての在り様で動いているに過ぎない」
マサオは、もう割り切った。この目の前の存在は、確かに百田サクラではないとはっきりと分かった。だが、それでも、このエイリアンに関わった事は事実であり、自分の生み出した行動の片鱗でもある。
「……在り様?」
「誇りである」
「プライドか……。なら、同じだよ。僕もあんたも」
「八房殺しを手伝うのか?」
「いいや、もうそれは無しだ。エイリアンには、八房を殺させたくない」
「なに?」
行動すれば、責任が生まれる。それが恐ろしい人々は、いつしか行動することを最小限にしようと世の中を無意識に組み立て始めた。その結果、桂男の憂う毒性の社会となったのだ。だが、しかしながら――。
「八房は、ろくでなしだが、人でなしじゃない。人の罪は、人が裁くべきだよ」
妖怪に、エイリアンに社会を否定されようと、作って来たのは人間なのだ。人間の起こした行動が産んだ波紋なのだ。
地球の波は、月の引力で作られたとしても、人の波紋までは干渉させるべきではない。それが、ドラマに出演するという誇りなのだ。だから、マサオは、桂男への協力を断り、彼を止めるためにいま此処にいるのだ。
「淀んだ毒に満ち満ちた環境で発育した人間では、罰が細菌を生む」
「そんなことはない! ……なんて言えない。あなたのいう事も一理ある。今の世の刑罰で、社会が改善するかと言えば、それは分からない。でも、ここは僕らの世界だ。それを外から来たヤツが、ドヤ顔で活躍するなんて無責任すぎるだろ」
「お前たちは責任から逃れたがっている。世にあふれる総意が、別の世界を欲している。今のこの世を愛していない」
「愛してるよ」
マサオのその言葉だけは、桂男を黙らせた。
地球になぜこうも強い重力があるのだろう。引力が働くのは目に見える物質だけではないと、この地に降りてみれば分かる。想いは引かれあう。それを彼はまっすぐに示していた。桂男が知らぬ重みだった。
「一方的な愛は否定される」
「分かってる。でもそれが僕が行動する理由だ」
「愛されずとも好いというのか」
「あんたは、この世界に毒が蔓延してるみたいに言ってるけどさ。無菌状態で保護管理されたって、抵抗力は弱まるんだ。だったら僕らは、もがいて耐性を付けてでも、生きて泥まみれの足跡を残したいんだ。足跡を、誰かに見つけてもらいたいんだ」
桂男は、腹の中の命のカケラに問いかけた。
――どうだ。まだ怖いか、と。
母親の世界に対する悲しみを受けて生まれた命のカケラは、生れ落ちる恐怖に震えていた。今の世を憂いた桂男の心境と重なった胎児の夢は、この世が寂しく覚えて泣きじゃくった。
そんな寿命を吸った桂男は、胎児の純粋な安らぎを求める願いを叶えるために、己の内側にカケラを宿して社会を見て回った。
周囲に張り巡らされた妖気の網に怯え、迫る刑事に迫られて、そんなときに彼は、温かい手で、守ってくれたのだ。
八房を捜すために、高校へと行った時は、誰もが自分を避けた。こちらに気が付いているのに、無関係を装って壁を作った。
世界は冷たい。
そう思った。孤立し、どうしていいか分からない自分の元に、引力に引かれたみたいに、下り坂から顔を見せたのもこの青年だ。
狐火の重力の術を受けた時、より強く感じた。
地球に引かれる想いというものを。愛は重力なのかもしれないと、身体を縛る重みに、愛情を強く感じたのだ。
おそらくそれは、桂男という同族へ持った狐火の持つ妖怪愛だったのかもしれない。
「八房は、僕ら人間が罰を与える。あなたは、どうか、安らかにいてほしい」
マサオの、最初から最後まで一貫した、彼女の安らぎを求めた言葉は、まっすぐに投げつけられた。
「ココロよ……いいか――。無念を晴らす者は私でなくとも――」
桂男は、消えていく。
彼を支えていた命のカケラの寿命が尽きたのだ。
もとより、自害した母親の胎内にいた胎児の夢など、そう長くは持たないものだった。
短い間ではあったが、悲しみに暮れた胎児を泣き止ませたかった。
塵となり、風に消えゆく桂男に、マサオは手を伸ばした。
その指先が、中にいた幼子の夢をかすめた時、泣いているような音を立てていた風は、安らかに静まっていった。
星空の中に、月は見えなかった――。
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