アラミタマ④ ~二十二日・新月~
六月二十二日、N警察署内にある留置所に入れられているM高校教師である八房を取調室にて尋問を行った。
オレは記録係に努め、尋問官は五十嵐警部が担当したのだが、八房の言い分は大体こうだった。
四谷ココロを強姦したことは認めるが、殺害はしていない。
オレはその言葉を信じた。なぜなら、八房からは死臭がしないからだ。こいつは人を殺したことがない人間だとオレには分かる。もっとも、そんな事を誰かに言ったりするわけもないが。
八房のDNA鑑定と、四谷ココロの解剖結果から出たDNAが一致し、教師にありながら教え子に手を出したこと、それも合意のもとにない強姦であったことなどを含め、彼は無実というわけにはいかなくなっていたが、殺人だけは犯していないらしい。
五十嵐警部は取り調べ後、署内の喫煙スペースで煙に包まれながら何やらずっと考え事をしているらしい。
おそらく、八房の供述の信ぴょう性を見極めているのだろう。実際のところ、殺害時刻であった時間に八房はアリバイがないし、容疑者としてはかなり黒だ。八房の家を捜索したところ、女子高生に群がられるだけの内容のマンガが多数見つかった。いわゆるハーレム系ってやつだ。
妄想を実現したかったか、勘違いしたのか、実際の教え子に手を出したのが運のつきというわけだ。しかし、家宅捜索をしても、殺人の証拠になるものは見つかっていなかったのが、五十嵐警部を悩ませているのだろう。
オレは、缶コーヒーを片手に百田サクラの事を考えていた。
調べてみた処、やはり彼女は一人娘で間違いがなく、親類を当たってみたが、彼女と瓜二つという女性は見つからなかった。
では、あの死臭を纏うサクラはなんなのだろう。他人の空似というものがある事は知っている。実際にそういう人物は不思議なくらいいるもので、まったくの他人である可能性は捨てきれない。
なにせ、あの日の百田サクラ(偽)は、雨に濡れていたし、雰囲気がまるで違っているようにも見えた。
頼りにできるのは死臭の臭いだけ。オレは自分の鼻に神経を使う事にしたのだが、そこにヤニくさい五十嵐警部が息を吐き出して、オレに訊ねてきた。
「三井。オレぁ、あの教師はコロシてないと思ってる」
「へえ? 何でですか? 刑事の勘?」
「そうだ。刑事の勘っつーか、長年培った直感だ。前に、お前に聞いたろ。直感で答えろってよ」
そう言えばそんなこともあったか。だが直感も刑事の勘も明確な証拠にはならない。
「だいたいな、点と点だった感覚が線でつながるんだよ。分かるか」
「……まぁ、なんとなく」
「んでな、教師の言葉は線でつながると思えたんだわ。だからあいつぁ、嘘は言ってないと思ったね」
「嘘を見抜くってのは、ウチらにゃ必須技能ですからね」
優れた捜査官ほど、相手が嘘をついているかを見抜くことができる。嘘をついている時のサインは、色々あるが、重要なのは自然ではない事を見付ける瞬間だ。違和感をどれだけ感じ取れるかが刑事の技術に関わってくる。
長年刑事をやってきた五十嵐警部がいうと、それは確かに頷けるものだ。
「でな、オレぁ今回の事件でよぉ。イッコだけ点と点が結びつかねえ処があったんだわ」
「なんスか?」
オレは警部のボヤキにほとんど曖昧に返事をしていた。こういうのはよくある、毎度きちんと相手をしていると、めんどくさいので、今回もどこか曖昧に相槌を打った。
「……高校によぉ、聞き込みにいった時ンこと、覚えてるか」
「ああ……、ハイ。あの女の子がタレコミしてくれた時ッスね」
「ああ、その日のことだ……。あんとき、車ン中で、お前に第一発見者の事、訊ねたろ?」
オレは、その言葉に眉をしかめた。どの時の話なのか、すぐに頭に浮かんでこなかったのだ。
「お前、あんとき『そっちの事は調べてませんでした』っつったわな」
「……そうでしたっけ?」
「おう、その『そっちの事』っつーのはよぉ。『どっち』の方なら調べたんだ?」
なんだ、どういう意味だ?
オレは急に、この先輩刑事の言葉が頭でぐねぐねと変形するように掴み切れなくなった。あの時の状況の事をしっかりと思い出せ。
そうだ、たしか――。
高校に向かう最中、百田サクラの話題になって……、昔彼女はストーカーの被害にあっていたというような事を話した時だ。
「いや、だから、『そっち』ってのは第一発見者のことだったんでしょ。オレが調べたのは、四谷ココロの事です」
オレはなんだか、百田サクラと名前を口に出すのが嫌な感じだったので、『第一発見者』という言い回しを使った。
「あぁ。そうか。『どっち』はガイシャの方って意味だったんだな」
「……なんスか? そこが点がつながらないトコだったんスか?」
なんだ……? 何を気にしているんだ警部は。……気味が悪い。気色が悪い。そんな感じが心の根っこあたりにふつふつと浮かんできてしまう。だが、オレはそれを表に出さぬよう、『普段』らしさを装った。
「お前、百田サクラと会ったろ。十六日だ」
ヤニくさい息が重くまとわりつくようだった。
「は? ああ、はぁ……会いました、レストランで。何か思いだしたことがないかと思って」
「だからなんだよなあ~……」
「だから、なんスか?」
オレは内心イライラを押さえるのに必死だった。この五十嵐警部の口調は、どうにもねちっこく、取調室で犯人相手にするときと同じものだったからだ。
疑われているのか……? いやいや、まさか。そもそも、今回の事件はオレがやった連続殺人とはまったく無関係なのだ。つながるわけがない。四谷ココロを殺したのはオレではないのだから、堂々とすればいいのだ――。
「お前、第一発見者の事を、調べてるじゃねえか。なんで『そっちは調べてませんでした』なんて言葉が出やがったんだ?」
「……いや、だって、あの時五十嵐さんストーカー事件の事をいうから……」
「じゃあ、あの時のお前の『そっちを調べてなかった』って意味は、『四谷ココロのストーカー事件』を調べていたから、『百田サクラのストーカー事件』には手をつけなかった。こういう意味か?」
――しまったと思った。これは、誘導尋問だ。オレは今、完全に追い込まれたと思った。
そして、不自然な発言をしたことをもう訂正するには遅いということを知り、オレはそのまま黙り込んでしまった。
ただ、こくりと頷くだけ返すのが精いっぱいだった。喉の奥を生唾が落ちていく。それをごくりと飲み込む音すら立てる事が嫌で、オレは口の中をしばらく唾液で満たしていた。
「ならいいんだがよォー。オレぁてっきり、『百田サクラの事を調べたが、ストーカー事件は調べてなかった』って意味に考えてな」
「はあ」
「だったら、『百田サクラの何を調べたんだ』と気になってなァ」
「……さっきも言ったように、『四谷ココロの事』を調べていました」
「そうかそうか。レストランで話を聞きに行った時のこたぁ、特に進展がなかったから、言ってなかっただけだよな」
「は」
「話は戻るがよ。オレぁ、長年培った経験でウソってのは大体分かる」
「……オレの話が嘘って言いたいんですか」
「そうは言わねェ。だが、嘘を吐いている人間は、嘘に嘘を重ねるからよぉ。話せば話すほど、ぼろが出てくるわなぁ。だから、まぁ嘘なんかつかねェにこしたこたぁ、ないわけだ」
「ですね」
「だから、口数が少なくなるわな」
「……なるほど」
「お前、今日ずいぶん大人しいじゃねえか。女子高生がタレコミしてくれたときゃあ、妊娠のことまでべらべらっと舌を動かしてたお前らしくねえなァ」
「……五十嵐さんが、ヤニ臭いからッス」
「ははは、オレぁ法律でタバコが禁止されたって吸い続けるぜ」
そう言って、五十嵐警部は手を振りながら去っていった。
オレは缶コーヒーに口を付けた。
中身の黒い液体を啜ろうとして、すでに中は空であることに気が付いて、オレはしばらく、その空の缶を口につけたままコーヒーを飲むフリをした。
背中に嫌な汗が伝い落ちていたのを気づかれずに済んだ。背広を脱げば、オレのシャツの背中は湿っていたことだろう――。
――まずい。五十嵐はこちらを怪しんでいる。
まだ、オレが過去の事件に関わっているということにはたどり着いていないだろうが、オレの行動の違和感には気が付いているのだ。
オレは別に油断していたつもりはなかった。
だが、深層心理で、オレは今回の事件と過去の事件は無関係だという事を演出させたくて仕方なかったのだろう。だから、自分の発言の裏っかわの底の方まで覗き込まれたとき、蛇に睨まれたような気分になったのだ。
五十嵐は、ちょっと違和感でもとりあえず突っつくところから始める。
オレに感じたちょっとした違和感に微弱な力を与えてどう反応を示すのかを観察したのだ。
その結果オレは、今、致命的な反応を示した。
脅しには、証拠など必要ない。
相手にとって、それを突かれるとマズイ、と感じさせた時点で脅しは成功しているのだ。これが尋問の初歩だ。
五十嵐はそれに長けている。ベテランの刑事なのだ。
まずい。まずいまずいまずいまずいまずい!!
一刻も早く、この事件を収束させるべきだ。
この捜査が長引けば、無関係のオレの痛くない腹を探られて、別の疾患を見付けられる。
オレは、いよいよ行動に出なくてはならなくなった。
この事件の犯人を見付けなくては!
死臭だ。死臭を追うのだ。選ばれし特異性のある主人公のスキルのように。一見すると役に立ちそうもない能力が奇蹟を生む物語の如く――。
うっとおしいヤニの臭いを無視しろ。死臭を感じ取れ。ヤツが犯人なのだから。
オレは調査を行うために、署から出ようと思った。
その時、奇跡が起こった。オレは、その瞬間、神とか仏の存在を信じた。ひょっとすると、妖怪とか幽霊なんかもいるかもしれない。そのくらいに浮かれてしまう。そういう奇蹟をいま、体験した。
「あのう、こ、ここに八房という人が捕まっていませんか」
署の受付からそんな間の抜けた声が聞こえてきた。
オレはそちらを振り返り、かちんと静止したのである。
間抜けな声の主をオレは知っている。こいつは、あの雨の日、オレの手を傘で殴りつけたヤツだ。レストランで突然現れて頭を下げてきた阿呆だ。
そして、その傍にいる女性は、百田サクラで間違いなかった。
オレは『嗅ぎ分け』の能力を使う。――たばこの臭いがまだ鼻孔の奥にこびりついているようだったが、オレの鼻は標的を『クロ』だと判断した。
間抜けな男の隣にいるサクラから、強烈な死臭を感じ取れたのだ――。
「ミツケタゾ。ミツケタ。ミツケタ、ミツケタ、ミツケタ、ミツケタ、ミツケタ、ミツケタ」
オレの傍には、殺されたい少女が寄ってくる。
そんな風に感じていた。やはり、オレは引力を持っている。欲しいものが寄ってくるという引力が。
口の中で、ミツケタと何度も繰り返し、標的を見定める。もう逃がさないために。
いつしか、『標的』が何の標的になっているのか、自分でも曖昧になってきていた。
あいつを捕まえる。あいつを殺す。どっちだったか。
どっちでもいい。分かっているのは、アイツがバカな殺人を起こしたせいで、こちらの平穏が乱されつつあるということだ。
報復だ。思い知らせてやる。
この街で人殺しをしてもいいのは、オレだけだ。
オレの許可もなしに、コロシをやりやがって。
オレは、受付で不安げな顔をしている男と、死臭の女の前に顔を見せた。
「こんにちは。八房に会いたいんだって? 僕が担当だよ」
その時の二人の顔は傑作だった。
オレは二人を連れ立って動く。動き出す。状況が動き出したのだ。
午後五時前ギリギリ。
いい時刻だ。
黄昏時――。
かつては誰そ彼と言われた夕闇の時刻。隣人の顔が見えずに、影に紛れる時刻。
逢魔が時がやってくる――。
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