サキミタマ④ ~二十日、二十一日~
「……お前彼氏とかいんの?」
風呂上がりに、僕は妹に声をかけてみた。
それは僕には意味のある言葉だった――。
好きな女性に、初めてきちんと話ができた。そしてその日に、彼女とは二度と会う事はないのだろうと、恋心は叩き潰された。
僕が好きな女性は、視線に怯えて過ごしていたらしい。それが僕の熱いまなざしを受けての物だと知り、僕はもう彼女に辛い思いをさせたくないと考えた。
だから、犯人は僕だった。悪気はなかったし、今後は一切に傍に近づかないようにすると弁明した。
彼女はその言葉を理解してくれたのかは分からないが、一度だって僕を見ずに、逃げるようにその場から立ち去った。
――終わった。
僕は完全にその恋を崩壊させたと思っていた。でも、きちんと伝えたかったのだ。視線を怖がる自分を酷く卑下していた彼女に、きちんとあなたの美しさを見ている人がいるのだという事を。
……そうじゃなければ、僕はなんなんだろうと考えてしまうから。
僕は生まれてこの方、誰かの視線を感じた事なんて一度もない。物語の主役にはなれず、世界にたくさんいる人間Aでしかない。いや、AどころかJとかMとかもっと、半端なところの人間だ。
居ても居なくてもいい人間。それがこの僕、千原マサオ。
妹からは空気だと思われているし、僕自身、自分に自信はない。自分の立場というのを良く分かっているつもりだ。
……でも、それがとても嫌になっていた。
僕は彼女に偉そうに物を言う前に、自分自身もしっかりと認めなくちゃならないのだと考え直していた。
だから、妹との会話は僕の中での第一歩だった――。
いきなりこんな話題を振った僕に、妹は怪訝な顔をして「はぁ?」と答えた。
何言ってんだコイツって顔がそのまま出ていて、こっちとしても、ああ、これは会話の切り出し方を間違えたなと思った。
また改めよう。僕はそう考えて、風呂に向かう。
後ろでは「んだよ、もう」と文句を零しながらアイスをかじる妹が機嫌悪そうにこちらを睨んでいた。
妹よ、兄はちょっと踏み込んでみたかったんだ。他人の世界に。初めてだったから失敗しただけだ、許せ。
風呂に浸かって先日の事を思い返せば、やはり重い溜息が漏れてしまう。
もっとこうしてれば、とか、あんなこと言わなければと後悔がすぐに浮かんでしまうあたり、やはり自分は根暗な男だなと湯船に顔を付ける。
「……まぁ、嫌われるのも仕方ないか。全然知らない男に名前まで知られてりゃ気味も悪いだろう」
ノイローゼになるほどとは、よほどつらかったんだろう。思い返しても彼女の顔はやつれていたし血色も悪かった。
そう言えばなんだか例の女子高生殺人事件の事を気にしていたが、視線の話とは関係あったのだろうか?
あの時は、僕も舞い上がっていたから、彼女の話をきちんと理解せずに頷いたりしてしまった。
――一刻も早く犯人が見つかればいいと思ってる。頑張ってください――。
そんな事を言われて、思わず「頑張ります!」なんて返事をしてしまったっけ。なんというか、本当に自分の落ち着きのなさがかっこ悪いと思う。
女性というのは、どっしりと落ち着いた男に惚れるもんなんだから、僕なんかはやはりお話になるわけがないのだ。
「でも、……なんであんなにあの事件の事、気にしてるんだ……? やっぱり、女の子を狙った殺人だから、怖いってことか?」
なんだか妙に気になって来た僕は、その事件に関して調べてみる事にした。
風呂から上がり、自室のパソコンで記事を集めては読み漁る。匿名掲示板でも情報を集めてみたら、割と色々出てくるものだ。まず驚いたのが、妹の通う学校の同学年の女の子が殺されていたと知ったことだ。
正直、ニュースにも妹のことにもそれほど興味を持っていなかったので、今になって身近な事件なんだと理解した。
アングラな情報も探ると、どこまで本当なのか分からないが、被害者の女子高生は子宮をえぐり取られていたという情報があった。
思わず、ゾクリとしてしまう……。
最近ハマっているダークファンタジー小説にありそうなシチュエーションだったからだ。
しかし、リアルにそれをするとなると、かなりヤバイ奴の犯行だと思う。
更に記事を追っていくと、なんだかすでに犯人は捕まっているようなニュースが出ているらしかった。
「……え? なんだよもう容疑者逮捕されてるじゃん? えーと高校の教師……。えっ?」
思わず記事を二度見してしまう。その逮捕された教師も妹の高校の教師なのだ。
僕は思わず、隣の部屋の妹に事件の事を聞いてみようかと思った。
しかし、さっき気まずい会話をしたばかりなので、ほいほい顔を出すのもなんだか気が進まない。
少しほとぼりが冷めてからのほうがいいかもしれないと考え、妹に話を聞くことはいったん止める事にした。
「……別に百田さんと接点があるようには思えないな……」
色々と記事を読み漁ったが、妹に接点はあれど、百田さんにはまるで接点などなさそうに見えた。
やはり、気にしすぎか。というか、もう会わないときっちり宣言したばかりなのに、まだ彼女のことを考えてこんなことを調べてしまうあたり、自分はストーカー気質があるんじゃないかと考えて情けなくなってきた。これでは、彼女が逃げ出したって不思議じゃない。
僕は気分を変えようと、パソコンから音楽を再生させて、ベッドに身を投げ出した。
明日から通学は自転車で行くか――。
もうあのバスは使わない。彼女が気にしてしまうだろうから。
もし万が一大学で鉢合わせでもしたら、その時はもう彼女を事を見ないようにしよう。
少しでも、彼女の心を安らかにしてやりたい。あの人は、人に怯えて生きるような女性じゃないと、僕は知っているから。
――あくる日、六月二十一日、金曜日。天気は晴れていた。
朝起きて、日ごろ使わない自転車を倉庫から引っ張り出して点検していると、妹がこちらをじろりと見てから自転車に乗って学校へと向かった。まだほとぼりは冷めていないらしい。
「一年くらい使ってなかったけど、乗れそうだな」
なんとか問題なく自転車が動くことを確認して、僕はそれをギコギコ言わせて通学することとなった。ギアだかチェーンだかがさび付いているらしく、こぐと変な音がするのが最高にダサい。
普段バスを使って大学まで行っていたので、なんとなくバス通りを走りたくなってしまうが、それで彼女に見つかってしまったら、本末転倒だ。
僕はスマホのナビアプリを出して、マップ画面を確認すると、バス通りを使わずに大学へと向かう道を探した。
よくよく見ると、バスで大学に向かう道は大きく回って向かっているので、狭い道を縫うように、大学にまっすぐ走れば、そうそう自転車でいけない距離でもなさそうだ。
普段走らない通りを抜けて自転車をこいで行くと、なんだか気持ちも切り替わるようだった。
今日から僕は、また新しい日々を迎えて生きていくのだ。今日はその記念すべき一日目ということにしようじゃないか。
こうして狭い住宅地の通路なんかを抜けていくと、朝の慌ただしい道路とは違い、静かで人気もあまりないのだという事に気が付く。
まるで自分だけの箱庭のようで気持ちが楽だった。問題点があるとしたら、もう通学中にネット小説を読めなくなるなと思ったが、これを機にネット小説も卒業しようと考えた。
スマホのナビ画面をグリップ付近で確認できるようにしてある自転車は便利で、迷うことなく大学にたどり着ける。
僕はナビ画面をちらりと見て、次を左折するのだと把握して、ギコギコと自転車を進めた時、思い出した。
――ここ。殺人現場付近だ。
つい先日の夜に調べていた殺人現場はこのあたりだったと思い出した。
ちょっとだけ興味がわいた僕は、寄り道をすることにした。その殺人現場に――。
そこは住宅地で坂が多くて自転車では大変だった。急勾配のある地形に住宅地を作ったため、坂道が続き、民家の向かいにコンクリの壁がそびえていて、その上に民家がまたできているような造りだった。
しばらくそのあたりを自転車で走り回ったけれど、具体的にどこで殺人があったかは情報に伏せられていたので、分からず仕舞いで、結局現場そのものを、僕は確認できなかった。
――犯人が見つかればいいと思ってる――。
そう言っていた。でも、もうニュースでは教師を逮捕したことを報道していた。
あとで冷静になって考えてみると、なぜか百田さんは僕を刑事だと勘違いしているようだった。なぜ、そう思ったんだろう。
例えば、僕を刑事として考えていたと仮定して、あの日のやり取りを思い返すと、なぜ百田さんはあの時、あんなことを言ったのだろう?
自転車をこぎながら、不意に浮かんだ疑問が心の中に、妙に引っかかった。
事件を気にしているなら、教師が捕まったことは知っているはずだ。
だったら、『あの教師が犯人なんですか』と聞いたほうが確実だし、自然じゃないだろうか――。
どうして、百田さんは「一刻も早く犯人が捕まれば」などという言い回しをしたのだろう。
……もしかして、百田さんはその逮捕された教師が犯人じゃないと分かっているのではないだろうか。
実は、彼女は真犯人を知っていて、早くその人を捕まえてほしいと、刑事に伝えたかったのではないだろうか?
「……ばかばかしい……空想も大概にしとけって……」
自分の考えが飛躍しすぎてなんの根拠もない話だと、自分に呆れた。
「しかしっ……! 上り坂がっ! おおい、なっ……!」
ほとんど僕は立ち漕ぎ状態でひいひい言いながら住宅地を上っていく。しかし、普段身体を使うような日常を過ごしていないため、僕は途中でいよいよギブアップして、自転車から降り、押す形で坂を上りだした。
はぁはぁと息を吐き出して、天気が良かったことにほっとする。
ああ、今日が晴れだからよかったけど、雨が降ったらどうしよう。バス通学はできないし、タクシーは流石にないよなあ……。
そんな事を悩んでいると、とある角に人影を見付けた。
周りは静かで、人気もないのだが、その人影はなんだか寂し気にぽつんと浮かび上がっているように見えた。
そして、僕は心臓が止まってしまったかと思うほど、驚愕したのだ。
「……も、百田さん……」
そう。その人影は、もう会わないと誓いを立てた百田さんだったのだ。
僕の声に、百田さんは茫然としていた細い身体をこちらへとくるりと向けた。なんだか儚げで消え失せてしまいそうな感じを受けた。
「あ、あなたは……」
百田さんも驚いた顔をしていた。ただ、その姿はなんだか疲れ切っているようにみえて、酷く不安げな顔をしていたのだ。僕は、また彼女を追い詰めてしまったように思って、その場から動けずに、「すみません!」と視線を外すしかなかった。
だが、そんな僕に、百田さんが駆け寄って、僕の手を取ったのだ。
「お願いします、助けてください……!」
なりふり構っていないように、僕に縋り付いてきた彼女は、心底困っているようだった。
僕は昨日の今日で、どうしたらいいのか困惑したが、それでも彼女の救いを求める声を無視することなどできるはずもなかった。
「おねがいします、追われているの。私を連れて行って……!」
「追われてるって、誰に……っ?」
「おねがい、連れて行ってほしいの、探している人がいるんです!」
「誰ですかっ、ってか、ちょっと落ち着いて……!」
百田さんは先日とはまるで別人のようだった。だが、同時にああ、これは彼女で間違いないという自分もいたから不思議だった。完全に頭の中が矛盾している。
奇妙だと思いながらも、彼女はホンモノだとも思ってしまうのだ。
だって、彼女のこの必死な表情は、一度見たことがある。
あの雨の日に、路地裏で男性に襲われていた時の顔と全く同じだから。
――そうか、やはりあの男は百田さんに言い寄る、本当のストーカーなのかもしれない。レストランで話していたのは、まるっきりの他人じゃないから、事情があるとかなのかもしれない。たとえば言い寄ってくるバイト先の先輩、とかだ。
そんな風に考えた。
考えたが、それは後付けの理屈だった。
結局の処、僕は男で、彼女は女だった。僕にはそれがすべてでしかなかったのだと思う。僕は、ただ、彼女の傍で力になりたかっただけなのだ……。
「落ち着いて、誰のところへ行けばいいんですか?」
「は、はい……M高校の二年C組担任の……八房という人を探しています」
「……え? 八房? M高校の八房って、あの逮捕された?」
いや、聞き返したが間違いない。昨日調べたばかりだから。記憶だって間違ってない。
M高校、二年C組かどうかは知らないが、八房という教師が逮捕されているのは間違いない。
ならば、どこに行けばいいのだろう。
留置所……そう、留置所だ。逮捕された人間は留置所へ連れていかれるはずだ。
この近くの留置所なんて知りもしない。
どこに行けばいいか分からない。とにかく僕も落ち着かなくてはならない。今度こそ、僕は彼女のために、力になるチャンスなのだから。もう、間違いは許されないのだ――。
僕は決意を固め、彼女の手を取った。
「僕に任せて」
僕はその日、大学を休むことにした――。
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