サキミタマ③ ~十八日~
六月十八日。昨日は雨が降っていたものの、今朝はすでに止んでいてほっとした。雨の中バスを待つのはうんざりだから。
傘をさすことに上手いとか下手とかあるのか分からないが、私は傘をさしていてもすぐに濡れてしまうのだ。
――私、傘へたくそなんだ。
なんて言って、男子の気を引く女の子がいた。懐かしい友人の話だが、今はもう連絡は取っていない。その子はある日、忽然といなくなってしまったから。
私は今、大学へ向かうバスを待っている最中だった。
近頃は殺人事件に巻き込まれてしまったせいで碌に睡眠ができずに疲れた顔をしていた。朝、鏡を覗き込んだ時、自分の顔にぞっとしたものだ。
……目の下にできたくまが、不気味さを演出していたけれど、私はその時、あの殺人の夜に見たもうひとりの自分を思い返してもいたのだ。
視線を克服するために、鏡を見るということを意識的にしていたのに、それさえも封じられたような気がして、正直なところかなりストレスを抱えていた。
バスがやっと来た。バス停に書いてある到着時刻から五分もずれている。そんなことでさえ私はイラつきを感じてしまう。
きっと、バスに乗り込んだ時の私の表情はさぞ不細工だったことだろう。
「あ」
バスに乗り、まだ降車口のドアが閉まっていないような状態で不意に声がした。
私はそちらを無意識に見て「あ」と、同様に声をあげていた。
その声の主は、バスの後部座席に腰かけていた青年で、あの日、レストランで三井さんに謝罪していた男性だと気が付いた。
「こ、こんにち……じゃない、おはよう、ございます」
思わず目があったためか、あちらも気まずそうに挨拶をした。だから、私も挨拶を返すしかなくて、「おはようございます」と軽い会釈をした。
その後、隣の席が空いていることを確認して、このまま無視をするように別の席へと移動するのもなんだか無礼な気がした私は、気のりはしなかったが、彼の隣に腰かけた。
――バスのドアは閉まり、そしてゆっくりと走り出したものの、私は隣の男性にどう声をかけていいものか分からず、ただ気まずい状態で黙っていた。
これなら、違う席に座ったほうがまだよかったと後悔しはじめたころ、隣の男性がこちらへと窺うように声をかけてきた。
「……あの、こないだは、本当にすみません」
「え、いえ……。別に私はなんとも……」
そこでまた会話が終わってしまった。気まずいバスの狭い座席で私は早く大学についてくれないものかとそれだけを考えようとしたが、ふと、気になることができた。
そういえば、この男性は三井刑事と知り合いだったはずだ。あの日同様に、今日もシャツにパンツというラフなスタイルでいるが、私服警官と言う奴だろうかと考えた。捜査のために、あえて普通の姿でいる捜査官がいるとドラマで言っていた。
あの刑事は去り際に私に、「双子はいますか」と妙な質問をした。もしかしたら、あのもう一人の私の事を掴んでいるのかもしれない。
――それか、私自身を怪しんで、監視をしているのかもしれない。それこそ、この男性が、私の監視役なのかもしれないとそんな風に考えた。
もう一人の私の事が気になっていた私は、それとなく話を聞き出そうと、事件の話題をふることにしたのである。
「あの、事件のほうは、その後なにか……?」
「え? ジケン? ですか?」
男性はきょとんという表現がまさに当てはまるそんな表情をしてみせて、目をクリクリと動かした。なんというか、わざとらしいほどにとぼけている顔だったので、演技が下手糞な人だと思った。
「……公共の場、ですから言えない、とか?」
考えてみればバスの車内でする話でもない。そういう意味で知らないような反応をしたのだろうか。確かに、バスはそれなりに人が乗っているから、声にだして話すにはあまりにも場違いだ。
現に、今、私たちの後ろに座っている五十歳くらいのおじさんが、ギロリとこちらを睨みつけたようだった。げほげほとわざとらしい咳をしてみせて、バスに乗る前にタバコでも吸っていたのかなんだかヤニ臭い。視線の威圧で『うるさい』と言われたみたいで、私は声を落とす。
「……私、大学前で降りるんですけど……」
「あ、僕もです」
「え……あ、そう、ですか」
なぜか嬉しそうに言う彼に、私はちょっと肩透かしをくらったみたいになった。ともかく、同じ駅で降りるというのなら、そこで会話もできるだろう。
なぜ、この男性がバスに乗っているのか、大学で降りるつもりだったのか分からないが、私は後ろの男性の視線が厳しくて、結局そのまま大学前までだんまりを決め込んだ。
それからバスが大学前までつくと、私と隣の青年は一緒にバスを降りた。
私が先に降り、そのすぐ後ろに彼は続く。彼が降りてくるのを待っていたら、彼はなんだか妙に赤らんだ顔でこちらを見つめてくるので、なんだろうかと少しだけ首を傾げた。
キャンパスの広場はベンチなどあり、そこでなら会話をしたって不自然な状況にはならないし、広いキャンパス内であれば大声で話しでもしないかぎり、いちいち周囲の学生の会話など気にする人もいないだろう。
「あの、少しお話しませんか?」
「えっ!? い、いいんですか?」
「は、はい。私、ちょっとノイローゼ気味になってしまって、あの時のこと、怖くて」
私が事件の事を話したいとそれとなく誘導すると、男性はやはり目を丸くしてくりくりとさせた。
「あの時の……怖いって……。ああ! あの時のことですね」
そう言って合点がいったらしくこちらに頷いた。どうやら、こちらの話したいことを理解してくれたらしい。
私はできるだけ人目につかないベンチを探して、そこに二人で腰かけた。
「えっと、百田さん、ですよね……?」
「あ、はい。すみません、そういえばきちんと自己紹介せずに」
「あ、いやこっちこそ、探るみたいな真似して……」
おずおずとこちらの表情を窺いながら、彼は私に名前の確認をしてきた。こちらの名前を知っている事を申し訳ないという風に謝ってペコペコと何度も頭を下げていた。
「いえ、お仕事ですから」
「し、しごと?」
「あ、えっと、なんとお呼びすれば……」
「あ、僕、千原です。千原マサオ」
千原マサオと名乗った男性は、妙に緊張している様子で若干声が裏返っていた。ファーストインプレッションもなんだかおっちょこちょいな印象だったが、やっぱり改めておっちょこちょいな人に見えた。
「千原さんですね。それで……そのあれから何か進展はありましたか?」
「えっ? なんの件のお話ですっけ?」
「で、ですから……あの、女子高生の殺人事件です……」
「あ、あ? あの、ジケンですか。こ、怖いですよね。は、犯人まだ見つかってないんですよ」
千原さんは気が付いたみたいに言って、声のトーンを落とし気味にまだ犯人が見つかってないという。まだ捜査の進捗はそう進んでいないということを申し訳ないと思っての発言なのか、彼は所在なげに視線をきょろきょろと泳がせている。
「まだ、ですか……。その、私……本当に怖くて……」
「そう言えば……、さっきノイローゼって……おっしゃってましたね」
「は、はい……。思ったよりも衝撃が大きかったみたいで……毎夜碌に眠れないんです」
「それは、気の毒ですね……。あ、あのッ。ボ、ボボ、僕でよければ、相談に乗りますよッ……!」
「ありがとうございます……。一刻も早く、犯人が見つかればと、それだけですので……頑張ってください」
「は、ハイ。が、がんばりますッ」
なんだか、本当に頼りない男性だと思った。これで本当に刑事なのだろうか。……とは言え、警察なんてこんなものだろうとも思う自分も確かにある。
彼らは結局、大したこともできずに、こちらに『大丈夫ですよ』とニコニコ言うだけなのだから。
私が、助けを求めた時だって、彼らはなんにもしてくれなかったのだ。
――ストレスが、溜まっていると思いなおした。
別にこの千原マサオが私のストーカー事件をほったらかしたわけじゃないのに、彼に対して嫌味を言いそうになっていたのに気が付いた。
私は、ぐらぐらする脳みそを冷ましたくて、鼻ですぅっと呼吸した。
まだうっすらと雨の香りがして、頭を冷ます役割に一役買ってくれそうだ。
「あの、今日お昼って、空いてませんか?」
千原さんが拳を固く握って正面の水たまりを睨むようにしてそう言った。なんだかガチガチで力のこもった言葉に、私はちょっと気圧された。
「時間は、作れますけど……」
「ほ、ほんとですか?! じゃあ、近くに食事に行きませんかッ!」
声が大きい、せっかく人目を避けるために選んだ場所なのに、これではキャンパスに響き渡ってしまうではないか。
私は少々慌てながら、彼の誘いを断るしかなかった。
「すみません……私……食事は、できないんです」
「えっ……あ、す、すみませんっ!! ちょ、チョウシに乗ってしまってッ……」
「い、いえ……私がその、『会食恐怖症』なんです……」
「会食恐怖症……?」
「人と、食事することができないんです……。ですから、ごめんなさい」
私が断ると、千原さんは本当に申し訳なさそうに、こちらに対して深々と頭を下げた。
「すみません、ほんと、僕……前からずっとデリカシーなしで……」
ころころとよく表情の変わる人だなと私は彼を見ていると、ちょっとだけおかしくなった。申し訳ないとは思うけれど、素直な表情をころころと見せる姿は小さな子供みたいだと思った。
そしてそれがなんだかとても羨ましくも思えてならない。私がとっくに亡くしたものを彼はまだ持っているのだ。
私は視線に怯えて、いつも自分の顔に仮面をつけるように表情を作り上げる。取り繕った、暗い海の如し表情だ。
「そんなこと、ありません……私が悪いんです。私、ずっと前からそうで……自意識過剰なんです……。誰かの視線を気にして生きて、それで食事すらも満足にできなくなってるんですから」
あまりに彼が素直に言葉を吐き出すから、私も油断をしてしまった。
思わず彼に、自分の中の本音を見せてしまったのだ。何かを過敏に気にしては、自分勝手に苦しむのだ。なんと愚かな話だろうと自己嫌悪で頭痛すらしてしまう。
「……視線を、感じることが、苦しいんですか?」
千原さんは、そう言って、こちらを見ようとした顔を背けた。視線の話をしたせいだろう。見られることが嫌だと言った私を尊重しての行為だろうか。
「バカですよね。勝手に誰かに見られてるなんて思って、それで神経質になってるんです。それで会食恐怖症なんか患って……」
私が自嘲気味に薄く笑うと、ガードを解いていた自分の心にまた壁が出来上がっていくのを実感していた。
何を語っているのだろう。こんなよく知りもしない男性に。弱みを見せて、気を引こうとでもいうのか。なんとふしだらな女だろう。情けない。恰好の悪い人間だ。ほとほと自分が嫌になる。
そう考えるとどんどん精神が真っ暗な海の底に落ちていく。光もささない世界で、私は何かの気配に勝手に怯えて生きるのだ。
なんて私にお似合いの人生だ。
「――でも、見られることって悪いことばかりじゃないと思うんです」
千原さんが私に、励ますように、けどやっぱり視線は水たまりに向けられたままそう言った。
「どういうことですか?」
私が逆に、そんな彼に視線を寄越すことになった。私は彼の横顔をまっすぐに見つめていた。見つめる事はできるのに、見つめられるのは苦手だなんて、やっぱり私は身勝手な人間だと思う。
「毎日、毎日頑張っていても、誰も何も言ってくれない。僕はそんな風に考えてました……。ていうか、今も、そう考えたりします」
今度は彼が自嘲の笑みを浮かべた。その笑みは、なんだか私と似ているとも思った。見かけとかじゃなく、心模様が、というべきだろうか……。
「こんなに頑張ってるのに、誰も気が付いてくれないって。誰も僕の事を見てくれる人なんかいないって、そう思ってます。僕、妹がいるんですけど、全然会話なんかしないんです。まるで僕のこと、空気か何かみたいに思ってるんでしょうね」
ははは、と乾いた笑いをする彼に私は気の利いた返しもできず、ただ横顔を見つめていた。
「きっと、世界は僕一人いなくなっても、なんにも変わらない。僕は、無視されるだけの人生なんだろうなと、なんとなく考えてます」
「……真逆、なんですね、私と」
「どうでしょう……。でも、だから、僕はあなたのその視線を感じるってことが……羨ましいなんて思ったんです。あ、気を悪くしないでくださいねッ……!」
「いえ……私こそ、おかしな話をしました……ごめんなさい」
「あ、いやそのそういう意味で言いたかったんじゃなくてっ……」
千原さんは、慌てふためいて、その時はこちらを向いて、ばたばたと掌をふって謝罪し、「あー。うー」と言葉に詰まったようだった。
だから、ええと、と言葉を探す彼は、なんだか妙に必死で、赤い顔をしていた。
「その……いつも、あなたを見ていました」
「えっ――?」
千原さんが懸命に言葉を選んで出したそれに、私は思わず目を丸くし、聞き返してしまう。
「百田さんは、気が付いていなかったと思ってましたが、僕、いつも同じバスでこの大学で降りてました。いつも車内であなたを見て、いました……す、すみません」
「ど、どうし、て……?」
「それはっ……その、気になっていたから、と申しますか……」
「だ、だって……いつも同じバスって……、え……?」
この千原マサオという男性のどうにも腑に落ちなかった違和感のようなものが、ここにきて、存在感を増したように思った。
私はとんでもない勘違いをしているのだと、気が付き始めた。そして、ほんとうにおっちょこちょいなのは、誰だったのかを分からされてしまうことになった。
「は、春にこのMキャンパスに通いだして、それで一度だけ、今日みたいに、一緒の席で隣に座ったことがありましたっ」
「えっ、えっ……刑事さんじゃ、ない……の?」
「その時に、あなたのこと、ひ、一目ぼれしたんです。それから、ずっとバスが一緒なとき、あなたのこと、見ていました。……ご、ご迷惑になっていると、思いもしませんでした……すみませんっ」
「じゃ、じゃあ私が感じていた、視線の正体は……、千原さん……?」
……だとしたら……私がこうなってしまったきっかけとなるストーカー事件の犯人も、また、この男性なのか……。
いや違う。
私はうまく説明できないが、あの時の視線は彼じゃないとはっきり断言できた。
あの背筋を凍らせる、悪寒の視線を、私はバスに乗っている間は感じなかったのだから。
でも、彼はバスに乗っている間、私を見ていたという。――それはそれで、十分不気味じゃないか。たとえあのストーカーの犯人じゃないとしても、よく知らない人からじっと見られていたなんて、怖い――。
私は、もう彼の隣に座ってはいられなかった。
もうあのバスも使えない。
それに彼は、刑事じゃなく、ここの大学生でしかないのだ。なんて勘違いをしていたんだ。本当におっちょこちょいなのは、この私だったのだ。
「あ、あのっ……謝ってすむことじゃないと思います。すみませんでした。ノイローゼになるほどだったとは考えもせずに……」
「もう、いいです……失礼します……」
「ま、待ってください。見ていたことは謝ります。もうしません。ば、バスももう、使いません! で、でもこれだけは言わせてくださいッ」
私は彼が赤い顔をして叫ぶようにいう姿を見ようともせず、もうベンチから腰を浮かして歩き出していた。
私が逃げ出すように去る背中に、彼の言葉が確かに伝えようとする意思だけが、響いた――。
「あなたが、お年寄りに席を譲る姿を見てました! そんなあなたを、嫌いにならないでください! あなたは――!」
最後までは聞こえなかった。
彼の言葉は、耳ではなく、身体の中に染み込むように聞こえてきていたから――。
「あなたの優しさは、きちんと見ている人がいると、分かってくださいっ――」
その日、六月の梅雨空は久しぶりの晴れ間が見えた――。
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