ニギミタマ③ ~十八日~
ニコニコと笑うのは、そうしているほうが幸せに感じるから。
トゲトゲはイヤ、ギスギスは嫌い。ストレスを生むぶつかりが、わたしをいつも苦しめる――。柔らかくいれば、人と衝突したって、柔軟に受け止められるから。だからわたしは、いつもふわふわ。
「ナノは、ほんとマイペースだよな」
ケイコちゃんがそう言ってやれやれという具合に肩をすくめる。
「そんなことないよぉー」
「はいはい。今日、久々に晴れだってさ」
「そっかー、ずっと雨だったもんね。まだ曇ってるけど」
そんな日常会話をしながら、わたしはケイコちゃんと一緒に朝の通学路を歩いていた。まだ空は灰色だし、昨夜までは雨が降っていたせいで、道は濡れているけれど、夕方には晴れ間も見えて、星空を見ることもできるかもしれない。
まるで、今の私の心模様のようだった。
「……ん?」
もうすぐ学校に着くという校門の前まで来て、何やら奇妙な空気が辺りに充満しているのを感じ取った。
わたし達同様に、学校に向かう生徒がまばらに歩いているけれど、校門付近で奇妙な流れを作っていたのだ。まっすぐ校門に入っていけばいいのに、一画を避けるように人の流れは出来上がっていた。
ざわざわとする周囲の声に、ケイコちゃんも何事かと思ったらしく、その人の流れの歪さを生み出す原因を探った。
すると、校門の先に、女性がぽつんと立っているではないか。
その女性は長い髪を肩まで垂らし、細くて長い脚で棒立ち姿で佇んでいた。着ている服はよくあるカーディガンにショートパンツのスタイルだったのだけど、どうもよれよれというか、さながらその服を着っぱなしという印象が浮かんだ。
浮浪者、と言うにはその女性は若く、整った顔立ちをしていたが、白い顔はどこか病的な不気味さが漂っていた。
まるで、幽霊みたいに思った。なんだろうと思いながらも不気味すぎてみんな声もかけず、目を合わせないようにその女性を避けるように校舎へと向かう流れを組み立てていた。
「いこ……ナノ」
ケイコちゃんもその流れに従うように、顔をそっちに向けないまま、わたしの手を引いた。わたしはその手に引かれるまま、ケイコちゃんの少し後ろを歩いて、白い女性の隣を横切った。
その時だ。微動だにしない棒立ちが、揺れて動いた。
すぅっと音もなく、細い腕が持ち上がって、彼方を指さしているようだった。
ぎょっとしたケイコちゃんは、思わずその動きを見てしまって、指の先を目で追った。わたしもまるで誘われるかのごとく、延ばされた指の向こう側を見た。
そこには、高等学校の校舎がある。
白い女性はそこから、まるで何かを数えるみたいに、指を動かして、校舎を調べるようにみつめているらしかった。
「一階……、二階……」
かすれるような小声だったが、わたしの耳ははっきりとそう聞いた。数えているのだ。この女性は一つ一つ、階層を数えている。
「えい……。びい……。しい……」
――ぞっとした。何を数えているのか分かったからだ。この女性は、教室の場所を確認しているのである。
流石にヤバい系の人だと思った。わたしがあまりにその女性を見つめていたからだろう、ケイコちゃんが「ナノ」と強く手を引いた。
あんな様子の人が校内にいたのでは問題だ。すぐにでも先生が注意に来るだろう。そう考えたし、実際向こうから用務員のおじさんがやってくる姿を確認できた。
何者なのか分からないけど、もしかしたら警察のお世話になるかもしれないなと思った。
だって、今この学校は警察が目を付けているのだから。そう思ってもう一度だけ女性の姿を確認しようと後方を振り返った時には、なんとそこには女性はいなくなっていた。
「な、なんだったんだろ?」
「知んないけど、関わりになったって碌なことにならないよ。君子危うきに近寄らず」
ケイコちゃんがそう言って、つかつか玄関まで向かう。ケイコちゃんの座右の銘は、まさにそれで、厄介ごとには首を突っ込まない事と、よくわたしに言って忠告してくれた。わたしがいつもふわふわしてるせいだろう。
「今の話、ミドリとかに話さないでおこう」
「えー? なんで?」
「だって、カリンはともかく、ミドリは食いつきそうじゃん。正直、私、今は変な事で気持ちをかき乱されたくないんだよ。テストもあるしさ」
「うん、わかったよー」
確かに、ミドリちゃんに話したら、もう試験も目の前だっていうのに、また夜中に違う話で花が咲いちゃうから、黙っておいたほうがいいかもしれない。
――黙っておく――。
それが今のわたしには、簡単なことではないという事を、ケイコちゃんは知らないだろう。
つい先日、同じ学年の女の子が亡くなったことで、学校は少しざわついていた。そういう話題があまり好きじゃないのか、ケイコちゃんはその手のことになると、少し機嫌が悪くなる。
だから、わたしもあまり殺人事件の話はしないようにしていた。ミドリちゃんはちょっと興味を持っているようだったけど、やっぱりケイコちゃんが嫌がってるのを感じ取ってか自重はしているようだった。
――でも、わたしが語らないのには、もっと根本的な部分であった。
わたしは、この殺人事件の事を、罪悪感から話せないでいたのだ。だから、ケイコちゃんの気持ちに便乗するように、自分の免罪符みたいにしていた。
殺人事件の被害者、四谷ココロは、中学校時代の友人だった。
この事は、ケイコちゃんもミドリちゃんも、カリンちゃんだって知らない。
中学生の時はよく一緒に遊んだし、仲もよかったけど、高校生になってから疎遠になった。理由は彼女が部活に入ったため、という事にしよう。
中学校時代は一緒に帰ったりもしたけど、高校生になって彼女は部活、吹奏楽部に入ったため、わたしとは時間が合わなくなった。クラスも違うし、徐々に疎遠になっていった。
でもそういう友達はココロちゃんだけじゃなかったし、別段不思議な事じゃなかった。カリンちゃんもそんな具合で今私たちと仲良くしていると聞いたことがあるから、彼女も昔の友達とは疎遠なのかもしれない。
女の子は群れる生き物だから、どうしても一緒に過ごせる時間が少ないと、疎遠になる可能性が高い。別に嫌いあって別れたわけじゃないけれど、ココロちゃんとは自然消滅という感じに終わっていた。
そんなある日、高校一年も残り幾日かという時だった。
わたしはちょっとした用事で学校に遅くまで残ってしまうことがあった。その日、わたしは用事を済ませて帰ろうと人気の少なくなった校舎を歩いていた。
そんな時、使われていない空き教室から何か声が聞こえてきたので、何かなーと好奇心からそっと覗いてみたのだ。
すると、そこでは信じがたい光景が繰り広げられていた。
教室の隅で、誰かがうずくまっているように見えたけれど、うずくまっているのではなく、男に圧し掛かられている女の子だったのだと分かった。
馬乗りになっている男は、英語教師の八房だと分かった。普段の温厚で優しい先生の顔ではなく、夢中になって我を忘れているその形相はまるで鬼のように見えた。
そして下敷きになっている少女を確認した時、わたしは思わず声を上げそうになって口をふさいだ。
八房に圧し掛かられてくぐもった嗚咽をもらしているのは、四谷ココロだったからだ。
よくよく見れば、ココロちゃんは制服を乱され、スカートはめくれ上がっていた。そして、下着は足首に絡んでいて、恥部が露になってしまっている。八房がそこに必死に腰を打ち付けているのだと理解し、ここでいま何が行われているのか、わたしの呆けた脳内でようやく答えが出た。
教師と生徒の情事……。ご法度とされる淫行ではないか。
だが、今時生徒と教師間の恋愛なんてありえない話でもない。もしかしたら、二人はそういう関係なのかもしれない。これは二人の周囲の目から隠れて行われている逢引なのだとしたら、わたしがここで出ていくのは違うようにも思った。
そりゃ、もちろん、教師が生徒に手を出すというのは、世間的にはいけないことだし、ここは学校だから注意されたって仕方ないとは思う。
でも、人が人を愛する心に、年齢や立場、場所なんて無意味じゃないかとも思うのだ。
これがきちんと合意の上の行為なら、わたしは別に出ていくこともないし、二人の恋愛は自由だと、その時考えていた。
――でも、これが合意の上ではなかったら? 無理やり犯されているのだとしたら?
わたしはそう考えると、どうしていいか分からなくなった。
もういちど、そっと様子を覗くと、吐息を荒く乱す二人が見える。あの表情が嫌がっているのかどうか、わたしには分からなかった。そんな経験もないから。
ただ、いけないものを見ているという感覚だけが大きく膨れて、わたしは結局そこから逃げ出したのだ。
わたしの出した答えは、ケイコちゃんと同じ、『君子危うきに近寄らず』だったのだ。
見なかったことにしようという、逃げが、わたしをそこから動かした。
その日、わたしは何も見てないと自分に言い聞かせ、そして四谷ココロの事も、もう立ち消えた関係のなんでもない間柄だと言い聞かせるようにしたのだ。
そんな四谷ココロは、亡くなった。殺人事件だという。
わたしは、忘れようと思って奥深くに封じたその日の事を、まざまざと思い返すことになったのだ。ふわふわした世界で何も知らないわたしでいる事を、ココロちゃんが許さないと言ったみたいだった。
「四谷さんのこと、なんか知ってる?」
そうチャットメッセージが表示されたとき、わたしは胃の中の物を全て吐き出しそうな気持ちが沸き起こって来た。
ミドリちゃんの好奇心が打ち込んだ、深い意味もないだろうその一文がわたしの免罪符をはぎ取って、お前何か知ってるんだろうと銃口を突き付けてくるように感じられた。
どうしたら正解だったのかなんて誰にも分からない。でも、もしあの時わたしが割って入っていたら、ココロちゃんは死ななかったかもしれない。そんな気持ちが芽生えてきてからは、毎日が苦しかった。
ココロちゃんが殺されてから、学校に警察が来るという。テレビ局の取材だかで、声をかけられたこともあるけれど、わたしは無視を決め込もうと思った。
でも、無視することの恐怖をココロちゃんが訴えてくるようでもあった。
どうして、あの時無視したの? と、毎日夢を見る。
無視、それがどれほど残酷な行為なのか、わたしは知った。知った以上は精神が拒む。無視することを、恐れるのだ。
もし、ここでもう一度無視をしたらどうなるのだろう。事件は解決するのだろうか? それともわたしの一言で事件は解決に向かうのだろうか?
先生がココロちゃんを殺したのかどうかだって分からない。ただあの日、ココロちゃんが先生に圧し掛かられていたのを見ただけだ。そんな証言をしていいのか? それは無責任な行為なのだろうか?
わたしはせめて、八房先生が今どういう気持ちでいるのかを知る必要があった。先生がココロちゃんの事を想っているのなら、態度に現れるはずだから。
そして、わたしは先生を観察した。
その日、わたしはココロちゃんの担任ということで八房先生が事件の情報収集のために設置された目安箱の管理を任されている事をしった。
だから、わたしはそこに投書したのだ。
――四谷ココロと、八房は肉体関係を持っている――。と。
それはわざとらしく真っ赤な紙に黒字で打ち込んだテキストを張り付けて作ったものだ。
八房にプレッシャーを与えるための演出の役割もあるけれど、遠目に観察して、真っ赤な紙をどう扱うのかを確認しやすくするためでもあった。
八房の行動をしっかりと追い、彼が目安箱の整理を行うタイミングは逃さなかった。目安箱の整理は人目に付かないように閉じられた社会科準備室で行われた。
しかし、ドアには窓があり、覗き見れば中の様子は確認できる。それだけで十分だった。
八房が目安箱に入った紙を二種類に分け始めるのを見た。
見ている限りではただの書類整理にしか見えないが、一つは確認を終え、そのまま目安箱に戻る紙。一つは確認後、シュレッダーにかけられる紙と分類作業が行われているわけだ。
つまり、シュレッダーにかけられる紙は、不要な紙と判断されたかあるいは、本当に見せる事が出来ないもの、だ。
やがて、八房は赤い紙を手に取った。ひときわ目立つその紙を目にした八房はかっちりと固まったように見えた。慌てふためくというよりも、まるで石化したかのようだった。
そして、その赤い紙は、目安箱へ戻ることなくシュレッダーへと投げ込まれた。
――捨てた――。
それが答えかと、わたしは決断した。無視などさせるものか。無視することの恐ろしさを教えてあげる。
四谷ココロを無視することは許されることではないのだと、わたしは歩みだした。
そして、その日、放課後に駐車場で張り込んだ。そこには見慣れぬスーツ姿の男性が二人来た。胸にバッジをつけている詳しく知らないがあれが警察のバッジであることくらいは桜の紋所で分かる。
今にして思えば、わたしは共犯者が欲しかったのかもしれない。わたし同様にココロちゃんを無視した共犯者を。
そしてその人が罰せられることが、自分に対する罰にもなるような、そんな逃げ場を求めていた。
刑事の二人に、わたしは見たことを伝えることにしたのだ。
その翌日、つまり今日。六月十八日、白い幽霊のような女性を見たその日。
空はまだ曇っていたが、やがては晴れるという天気予報は、まさにわたしの願いを描いたかのようだった――。
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