サキミタマ① ~十五日から十六日~

 その日は朝から雨が降っていた。僕は傘をさして、近くのバス停まで歩く。


 僕の名前は千原マサオ。十九歳の大学生一年だ。趣味は特にないが、強いて言うなら小説を読むことが好きなくらいか。

 小説と言ってもネット小説だ。ただで読めるし、ここからアニメ化やコミックになる作品もある。それにスマホでどこでも読めるし非常に便利だった。

 とはいえ、膨大な量のネット小説が毎日アップされているので、好みの作品を発掘するのが大変だ。

 しかしながら、埋もれていた良作を見付けた時は嬉々としてその作品をフォローし追いかける。最近ハマっているのはダークファンタジー系で、グロ描写や性的描写が含まれているものが好きだった。

 きっかけはたまたま見たアニメで、魔法少女が殺し合いをするようなヤツだったんだが、そこからそういった系統に食指が動きだしたのだ。


 ネット小説というのは結構アングラなもので、自由に書いている人間が多いためか、中にはかなり過激な表現のものもあった。

 それに、まるで本物を見てきたみたいな描写を交える作者もいて、おいおいコイツ、マジで人殺したことあるんじゃないかとか邪推するものもあった。

 ともあれ、今はこういうジャンルにハマってしまっている自分がいるわけだが、こんなことは他人には口外できるはずもない。

 自分のスマホの検索履歴はそんな単語ばかりだから、下手にスマホを人に見せるわけにもいかないので、ロックなどはかなり厳重にかけている。


 今日も朝、大学へと向かうバスの中でスマホをいじってネット小説を読んでいた。雨の降る中、傘をさして待ち、やっと来たバスはまばらに席が空いている。

 後ろの座席が空いていたので、そこに腰かけてネット小説を読んでいたが、隣に誰かが座ったら僕は即座に読むのをやめて、スマホをしまう。

 横からちらりとでも覗かれたら、朝からなんてものを見ているんだと言われそうだからだ。実際そんな風に非難の声を上げるような人はいないだろうが、白い目で見られることは間違いないだろう。

 それと、実はもうひとつ、僕が小説を読まなくなる条件がある。


 それは、自分が乗ったバス停から三つ目に着いた時だ。

 そこで僕はいつも、スマホから目を上げて乗り込んでくる乗客を確認する。


(きた……)


 バスのドアが開き数名乗り込んでくる中の一人に、僕の意識は注がれていた。

 その人は僕と同じ停車駅で降りる。そして同じ方向へ足を進める同じ大学に通う女性だった。一度だけ、僕の隣に腰かけた時から、僕はこの人に釘付けになったのだ。

 おそらく、彼女も僕と同じ一年だと思った。なんというか、大学の空気に馴染めていない感覚を纏っていたからだ。

 周りにはサークルなどに入って多くの仲間を作ったりしてワイワイと楽しいキャンパスライフを満喫している人が多い中、彼女はどこか孤立していた。

 なぜ、僕がこんなにも彼女に惹かれるのかは、明確な理由はなかった。強いて言うなら自分も孤立していたからだろうか。

 そしてなにより、彼女が隣の席に腰かけた時、とてもいい香りが漂ってきたのと、可憐な目元と華奢な体が守ってあげたくなるような感覚を持たせたのだ。

 今日も僕の隣は空いているが、彼女はそのまま前の席のほうまで歩いて行って、立ったままであった。

 残念ながら僕の隣にはでっぷり太ったおばさんが腰かけた。化粧の匂いと雨の臭いが混ざり合い、きつくて少しむせそうだった。


 やがて、大学前の停車駅で僕は降車した。彼女も僕の前に降りていて、大学へ向けて傘をさして、歩いている後姿を見ることができた。改めてその後ろ姿を見つめると、まるでモデルのようにも見えた。

 細く長い脚は雨に濡れないように気遣ってなのか、ショートパンツのスタイルで、肌の白さがまぶしかった。

 雨の多い梅雨の季節、寒くても平気なようにカーディガンを羽織って、レイン・ブーツ姿で歩く彼女は水も滴るいい女だ。


 僕はそんな彼女の後ろについて、同じ歩幅で大学まで向かう。そんな日々が続いていた。


 別に彼女に声をかけようだとか考えたことはない。

 なにせ、同じバスで一緒というだけだし、大学内に入ればまったく接点はないのだから。


 そんな日々に急な展開がやってきたのが忘れもしない六月の十五日、土曜だった。

 その日も雨で、僕は好きだった小説が本として販売されることを知り、本屋へと向かうため、バスに乗って駅までやってきていた。

 駅前までくると、それなりに店があり、本屋、カラオケ、パチンコ、レストランに美容院と繁華街は賑わっている。

 目的の書籍を無事に購入できた僕はふと、繁華街の狭い通路の奥から聞こえた声に引かれるように視線を寄越した。

 なんとそこに、あのバスで一緒になる彼女を見付けたのだ。

 彼女は雨の中、びしょ濡れで綺麗な髪が頬に張り付いている。

 そんな彼女に見とれるなんて余裕はなかった。彼女は鬼気迫る表情の男に腕をつかまれ、逃げ場を探すように狼狽えていたのだから。


 僕は一瞬だけ動きを止めた。まるで石像みたいに、固まった。

 辺りを見回しても、雨のせいか人通りは少ない。すぐ傍のパチンコ店にでも飛び込めば人を呼ぶことはできるだろうが、僕自身若干混乱していた。

 目の前で、気になっている女性が襲われているのだから。

 僕はもう、理屈がどうとか考えることもできず、彼女の「離して」と怯える声に反応していた。

 持っていた傘を振り上げて男の腕に叩き下ろすと、怯んだ男から解放された彼女の手を逆に奪い、そのまま通路から逃げるように駆け出したのだ。


 それからは、どこをどう走ったか分からない。とにかく我武者羅に繁華街を駆け抜けて、雨を凌げる軒下でぜえぜえと息つぎをしていた。

 しっかりと彼女の柔らかく細い手を握りしめていたままに。

 それに気が付いて、僕ははっと手を離した。


「ご、ごめん!」

「……い、いえ……」

 謝る僕に、彼女は怯えた様子で少し距離を取る。あちらもあちらで何が何やら分からないのだろう。当然の話だ。


「そ、その、ひ、悲鳴が聞こえたから、さ……」

「あ、……助けてくださったんですね」

「あ、まぁ……そうなるかな……」

「ありがとうございます」


 そう言って、濡れた髪を垂らして彼女はお辞儀をした。

 ぐっしょりと濡れてしまっているシャツは透けて下着をうっすらと見せていた。僕は思わず目をそらして、言葉を必死に探す。


(なんだよ、この状況! まるでラノベか、マンガじゃん! 完全に今、主人公だろ!)

 とんでもないことをしたという、普段の自分では考えられないこの状況に僕はすっかり舞い上がっていた。

 こんなドラマティックな展開に遭遇し、あの彼女と接点ができるとは妄想すらできなかった。ともかく、この機会をみすみす逃すわけにもいかない。

 せっかくなのだから、彼女の連絡先とか知りたい。

 色々と、下心が動きだし、僕の心が変な勇気を持ち出したところで、僕は落ち着くために、食事でもと声をかけようとした矢先だ。


「では、私はこれで……」

 と、彼女は雨のなか、脱兎のごとく駆けていき、声を投げかける暇もなく姿を消したのだった。


「あ…………」


 僕は茫然と立ち尽くした。

 何を夢見がちな空想をしていたのだ。

 彼女からすれば、変な男に絡まれて困っていたところに、舞い上がったヒーロー気取りの男が乱入してきたに過ぎないのだ。どっちも厄介なヤツに違いない。


(そりゃそうだ……リアルは小説のようにはご都合展開にゃならない……)


 僕はぽつんと軒下でずぶぬれになった靴下の感触に力なく肩を落とした。男を叩いたその時に、傘も捨ててきてしまった。

 僕もこのままずぶ濡れで雨の中を行くしかないのだ。

 冷たい雨が、バカな僕の頭を冷ますのが、さらに情けなさに上塗りしてくれたのだった――。


 家に帰ると、妹が学校から帰ってきていて、ずぶ濡れの僕を見るなり、「うわ、部屋入るな」と顔をしかめた。

 言われずとも分かっている。僕は玄関からまっすぐ風呂場に行き、着替えとタオルを用意した。僕と妹は正反対の性格をしている。僕は思慮深いが、妹は猪突猛進だ。一度痛い目にあえばいいのにと思うのに、痛い目にあったのは、こちらのほうであった。

 だが、今日の僕の仕出かしたことを考えると、僕だって妹のことをバカにできない。僕だって、あの時はまさにイノシシのごとく、男に突撃していったのだから。

 後悔ばかりが沸き起こり、僕は重たい溜息を吐く週末になってしまった。


 ――その翌日、六月十六日、日曜日のことだ。

 雨はあがったものの、どんよりした曇り空のその日、両親はセ・パの交流戦を見に行くとかで野球場に遊びに行った。妹はどうするのか話もしていないが、親から昼食は自分で何とかしろと言われてしまい、僕は一人、昼飯を食べにまた駅前までやってきていた。

 駅前商店街のイタメシの店はなかなか美味くて好きなので、よく行っていた。今日もそこで昼食にするかと考えていた。


(うーむ、でもここのとこ、あの店ばかり行きすぎてるなー。気分転換に別の店でも開拓してみるか……)

 そう考えて、駅前のレストランやカフェを物色し始めた僕は、レストランの前で絶句した。

 店内をよく見通せるガラス窓の先に、例の彼女と、昨日僕が傘で叩いた男性がテーブルに向かい合って座っていたからだ。


(な、なな……、なんて偶然……。い、いやそうじゃない……あの男、昨日彼女に乱暴していたヤツだ……)


 そう考えて、僕は思いなおした。

 そもそもあの瞬間で僕はとっさに助けに入ったが、本当にあの男は彼女に乱暴を働いていたのだろうか?

 今の彼女と男の様子を窺うに、険悪な雰囲気を感じない。ひょっとしたら、昨日のアレは、単なる痴話喧嘩だったのでは?

 男と女のイザコザでちょっとした言い合いになっていた、とかだったら、僕のしたことはとんだ早とちりだ。

 何が小説の主人公だ! とんだ勘違い乱暴モブキャラじゃないか!!

 ……自己嫌悪も通り過ぎるほど、自分に呆れかえってしまった。

 憧れの彼女はいま、テーブルの対面に座る男と何やら神妙な顔で会話をしていた。

 もしかしたら、昨日の仲直りでもしているのかもしれない。


 ……そうか、彼女、カレシがいたんだな。当然だよな。あんな綺麗な人、ほっとくわけないし。


 そう考えると、僕は冷静になってきた。

 そして、今後彼女と同じバスで顔を合わせた時、はたまたキャンパスで鉢合わせた時、非常に気まずくなるなと考えた。

 きちんとここで謝罪しておこう。僕はそう自分を戒めるように、彼女たちが入っているレストランに入ることにした。


 受付を素通りして、彼女たちの座る席までまっすぐに向かうと、まず男の方と目が合った。

 男は、こちらに気が付いて、少しぎょっと目を丸くした。当然だろう。イキナリ傘で襲い掛かった男がまた顔を出したのだから。

 だから、まず僕は彼女に向けてというよりも、男のほうへと頭を下げ、謝罪した。


「す、すいませんでした。昨日は!」

 思わずひきつったような声で謝罪した僕に、男も彼女も驚いた顔をして口を開いたまま茫然とこちらを見ていた。


「あ、ああ。あの時の? いや、いいよ。別になんともなかったから」

 男は気が付いてくれたように言って、少し困ったような顔をして謝罪の言葉に笑顔を向けてくれた。

 彼女のほうは相変わらず驚いた顔をしたまま、僕をまじまじと見ていたが、もう僕は彼女のほうをまともに見ることはできなかった。

 とんでもない勘違いでめちゃくちゃに引っ掻き回しただけの迷惑野郎だったのだから。


「その、お二人が恋人だと思っていなくて……」

「えっ? いや、違う。違うよ?」

 男はそう言って慌てた様子で否定した。彼女のほうも、「はい」とぎこちなく笑顔を作りながら僕に軽い会釈をした。

 僕はその言葉に、なんとまた早とちりをしていたのかと更に恥の上塗りをした気分だった。

 これはいよいよ妹のことをバカにはできない。今後はもうちょっと妹のことを認めてやろう……。僕も結局血のつながった兄妹なのだから。


「あのう、お客様。ご注文は何になさいますか?」

 席の前で悶着していた僕の背後に、ウェイターが愛想笑いを浮かべてメニューを片手に声をかけてきた。

 そこで僕ははっとして、ウェイターと、席に座る二人を見比べてしまう。

 ウェイターからすれば、待ち合わせをしていた客だとでも思ったのだろう。

 オーダーを確認に来たついでに、店内で騒ぐなと釘をさすように視線を僕に投げていた。


「……あ、すいません……すぐ出ます」

 僕はもういよいよこの場にはいられないと考えて、おずおずと身を引いた。

 すると、男も同調するように「あ、オレも出ます。ここの会計は持ちますから、百田さんはごゆっくり」と彼女に向けて優しい声で言う。


 モモタ……。彼女の名前はモモタというのか。下の名前はなんだろう、と、こんな状況でも僕は彼女に未だ食いつこうとしているのが自己嫌悪させた。


「あ、私ももう、でます……。バイトですし」

「すいませんね、お時間取らせて。じゃ、一緒に出ましょう」


 そう言って、二人も席を立つ。僕はその中に加わっていいのかも分からず、ぎこちない空気が漂う中、さび付いた歯車みたいに、ギギギと身を回し、退店するのだった。

 余計な事をもうするのはよそう。僕はそそくさと、結局いつものイタメシ屋に向かった。

 店内に入ると、入り口間際の窓際の席に通されて、水を置かれた。

 僕はがぶがぶと一気にそれを飲み干して、気持ちをニュートラルに戻そうと必死だった。

 いつものカルボナーラを頼もうと思い、店員に声をかける。


 その時だ。視界の隅にまたも彼女が飛び込んできた。

 あの、モモタさんだ。

 イタメシ屋の前の美容院に入っていく――。


 ――バイトですし――。


(バイト先……? あそこが?)

 僕は凝視していた。美容院の店の名前、そこに入り会釈しながら奥へと向かっていくモモタさんの姿を。


「あの、お客様?」

 呼ばれてオーダーを取りに来たウェイトレスが怪訝な顔をしていた。


「あ、えと、ペペロンチーノ」

「はい、ペペロンチーノですね」


 そう言って店員は引っ込んだ。僕はそれを見送ることもないままに、正面の美容院をじっと見つめていた。

 やがてテーブルにペペロンチーノが届いたころ、自分がカルボナーラを食べるつもりだったのを思い出していた――。

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