ニギミタマ② ~二十日~

 ――何も考えずにいられる時間が、なにより幸せな時間なのだと、アタシは知らないままだった。

 暖かい湯船につかり、ぼんやりとしていたアタシは、今なんにも考えてないなーという事を考えていた。迫りくる期末試験を目前に控えた週末の夜。アタシは現実逃避にふけっていたのだ。

 毎日、好きなことを一生懸命にやっていれば、おのずと道はできていく、そんな言葉を昔どこかで聞いたけど、アタシの場合それは当てはまらなかった。

 その時のアタシはそう考えていたが、そもそもアタシはやりたいことをやっていたわけでもない。やりたくないことを避けていただけなのだ。

 やりたいことは良く分からないけれども、やりたくないことはいっぱい見つけることができた。不思議なものでやりたく無いことを避けていても、やりたいことを出来ているわけではないのだ。

 こんなことを考えているのも全部期末試験が悪い。試験したくない。あー……先行きも全然見えてない。

 進路希望調査には進学と書いたが、進学がしたいわけじゃないのだ。やることないから、とりあえず進学でしかない。なんと空虚な女なんだアタシは……。

 そんな考えをモヤモヤしていたら、メンタルがどんどん臭くなっていく。だから、アタシはお風呂でなんにも考えないように、心を無にしようと投げ出すように体をお湯に預けて、したくないことを無視しはじめた。

 のんびりお湯につかっていると、このまま時間が永遠に進まなきゃいいのになあと思ってしまう。

 が……、結局のぼせてしまうので、アタシは適当なところで浴槽から出るしかなかった。 


「アニキー、お風呂あがったよ」

「おう」


 アタシは気持ちよく一番風呂をいただき、次に入る兄に声をかけた。

 兄のマサオはアタシの三つ上で、現在十九歳。大学生やってる普通の平凡な男だ。見た目も趣味もこれといってパッとしない。そんな印象の兄だった。

 別に嫌いではないが、なんというか主張の少ない性格でアタシとは正反対だと思っていた。


「……なあ、ミドリ」

「んー?」

 アニキはさっさと風呂に行けばいいのに、風呂上がりのデザートを求めて冷蔵庫をごそごそやっているアタシに、何やら神妙な顔で声をかけた。

 あんまりアニキとは話さない。別に仲がいいわけでも悪いわけでもない。ただ、会話が少ない兄妹だった。

 だから、こんなトーンでアニキがアタシに話しかけるのがちょっと違和感を覚えた。


「……お前、彼氏とかいんの?」

「はぁ? なにいきなり」

「……いや、いいわ。風呂行く」

「はああ? なにそれ、アタシにゃ聞いても無駄だってコト?」

「そーゆーワケじゃねーよ」


 そう言って、アニキはさっさと風呂に向かっていった。

 そんな姿を見送って、こっちはもやもやした思いを無駄に抱えることになって、気分が悪くなった。

 まるで「カレシいんの? あ、ごめん、お前にカレシとかありえないわ。ゲラゲラ」みたいバカにしているかのようじゃないか。

 アニキだって、ぜってー彼女とかできないだろ! モブキャラ全開のイコール空気キャラみたいなくせして。

 アタシはなんだか、むしゃくしゃして冷蔵庫にあったアイスキャンディーをひっつかみ、乱暴にその袋を破いてがぶりとかみついた。

 冷たいアイスが湯上りの体を冷ましてくれるはずだったのに、アニキの意味不明な一言のせいで、台無しだ。


 アタシはそのまま自室に入り、スマホを取り出した。

 そして立ち上げるのはメッセージアプリだ。ヒマな時はたいていこれでチャットする。

 仲間のグループチャットに入って、さっそく今あった出来事を吐き出してしまう。


「お前彼氏とかいんの?」


 そうアニキに言われた言葉をそのまま打ち込んで見せる。友人の三人は気が付き次第、なんらかのリアクションを返してくれる。今回、最初にメッセージをくれたのはカリンだった。


「えっ、誰がですか?」

「いま、アタシにアニキがそう聞いてきたの」

「ナニソレ。いんの?」

 続いて入って来た送り主はケイコだ。さばさばとした物言いをすることが多いケイコだが、逆に遠慮なく言葉を交せてアタシは気に入ってる。


「いないよ、くそー。絶対アレばかにしてんだぜ」

「ミドリちゃんのことを、心配したんじゃないですか?」

「ないない。アタシのことなんて気にするような奴じゃないもん。誕生日におめでとうすら言ってくれないし」

 その後、ちょっとチャットに間ができた。


「ごめん、私お風呂」

 そう律儀に入れたのはケイコだ。そしてチャットから離れたらしい。

「あ、私もです。またね」

 続いてカリンもお風呂のようだ。現在二十時。この時間お風呂に入るのが多いアタシたちは、大体チャットで適当に駄弁りだすのが夜九時頃からだ。

 今日はアタシが思わず早めにチャットを打ち込んだので、間が悪かったんだろう。ナノはまだリアクションしてくれてないから、彼女も今まさにお風呂中なのかもしれない。


 ……カレシか。

 ふと言われて考えた。確かにアタシももう十六歳だ。高校二年生だ。彼氏ができてもおかしくはない。

 ……他の三人はどうだか知らないが、アタシはどうも恋愛が苦手だった。

 なんというか、恥ずかしいのだ。ドラマの恋愛モノとかも見れない。キスシーンなんかあった日には気まずくなってしまう程度には恋愛に免疫がなかった。


「あー、くそー。アニキのせいでなんかぐちゃぐちゃしてきた。つか、なんなのイキナリ。気になる」

 ベッドでごろごろ転がりながら悶えて居たら、スマホが震えたので、画面を寝転がったまま覗き込む。

 すると、そこにはナノからのチャットが通知されていた。


「お兄ちゃんいいなー」

 どこかずれたマイペースなリアクションはナノらしいと思った。少し苦笑してアタシはそれに返事する。

「どこがぁ~。全然よくないよ」

「わたし、一人っ子だったから兄弟とかうらやましい」

「そりゃ、兄弟に夢もってるからだって」

「お兄さん、恋人いるの?」

「いないと思う」

「じゃあ、彼女さんができたんじゃない? だからそんなこと、ミドリちゃんに言ったんじゃないかなあ」

「えーありえん」


 そんなやり取りをテンポよくした。フリック操作は手慣れたもので下手するとおしゃべりするより早いんじゃないかとか思ってしまうほどだ。……いや、そんなことないとはわかっているけどね。


 ――とは言え、ナノの言葉を完全に否定しきれないでもいた。可能性としてはあり得ると思うのだ。

 アニキに彼女なり、気になる女性ができたから、手近なアタシにサグリを入れて来たんじゃないかとか、だ。アニキは女の子とまともに会話しているところを見たことがない。それこそ、アタシくらいじゃないだろうか。

 でも大学に入れば世界は開けると良く聞く。キャンパスライフはこれまでの学生生活ががらりと変わって人柄をも変化させることもあるのだとか。

 もしかしたら、アニキも大学で女性と仲良くなってそのうち、カノジョもできるかもしれないと考えられなくもなかった。なんだか考え出すと面白くなくなってきたので、アタシはこの事から離れようと思いなおした。


 ――ぶっちゃけアニキよりも自分たちのことだ。

 アタシらの中で誰かカレシ持ちがいるだろうか。みんな表向きはカレシはいないと言っているが、実際どうなんだろう。

 なんだかんだでみんなそれなりに可愛いところがあるし、カレシが居ても変じゃないのだ。それこそナノは男子から人気だ。

 何と言っても胸がある。くびれがある。愛嬌がある。


「ナノはカレシいないの?」

「いないよー」

「だ、だよな。別に恋愛とかしなくても、今はフツーだし」

「好きな人はいるよー」

「だよな! 好きな人……、はぁ!? マジでっ?」

 自分で振った話なのに、苦手な恋愛分野の話題で思わぬ情報が飛び出てアタシは赤くなってしまった。


「わたしは、好きな人いっぱいだから」

(あ、ああ、そういう好きか)

 アタシはほっと胸をなでおろす自分がいることを気が付いて、はぁと大きく息を吐き出していた。やっぱりどうにも恋愛話は苦手だ。

 ごろりと体を右に向けると、視線の先にはカレンダーが見えた。

 来週からいよいよ期末試験だ。いい加減勉強しなくちゃならない。社会系はケイコが得意だし、ナノは理数系、カリンは国語が得意だった。そうなるとアタシは英語が得意……だったらバランスが良かったが、アタシは得意科目なんて何一つない。

 強いて言うなら体育だ。そんなわけで、アタシはこの試験期間中、みんなから色々と教わり勉強を進めてきた。

 将来何になりたいかなんてまだ決まっていないアタシは、アニキ同様にとりあえず大学行っとくかというあいまいな考えをしていた。

 だから、勉強は人並み以上に頑張らないとならないのは分かるが、正直自分の脳みそは、勉強をするためには動いてくれない性質をもっているようだった。


「好きな人……好きなもの……。好きになることができるのって、うらやましいな……」


 思わず零れたその言葉は、アタシの本音だっただろう。

 夢中になれるものを見付けている人は活き活きとしていた。明確にそれに向けて前進していく姿がうらやましかった。

 ゴールが用意されていることのなんと心地のいいことか。

 だが、アタシはどこがゴールなのかをまだ発見できていない。四方八方に広がるアタシの道は、どっちが自分のゴールなのか見えずに真っ暗闇なのだ。


「アタシは、何ができるんだろう。何が、したいんだろう……。何が好きなんだろ……」


 ぼんやりと物思いに沈んでいくアタシはいつの間にかまどろみだしていた。

 眠気に負けてうとうとと夢と現実のはざまを行ったり来たりしていたら、あっという間に時間は過ぎていた。

 いつのまにか、隣の部屋から音楽が聞こえていた。アニキが自室で音楽を聴いているらしい。

 アタシはベッドから起き上がり、台所にいって冷たいお茶を一杯だけ飲んだ。

 そして、切り替えをするように体の中身を流していく。


「勉強しよ」

 軽く伸びをして気を入れなおすとアタシはそのまま自室の戻り、机に向かった。

 時折震えるスマホを見て、仲間と駄弁りながら勉強したら不思議と捗る。

 それがアタシの日常だ。同じように繰り返されていく学生生活。変化を求めながら、変化が怖い矛盾を抱えて、アタシは毎日なんとなくを繰り返すんだ。

 ただ、今分かるのは、恋愛よりも友情が心地いいって感覚だ。

 みんなと一緒だと楽しいし安心する。それは間違いがないと胸を張って言える。


(あ、そっか。だから、捗るのかな……こいつらと話しながらだと)


 アタシはチャットで勉強の質問をしながら、ペンを走らせる。解けない問題も、四人で取り組めばなんでも解けていけそうだと思った。

 夜も更けて日付が変わる。午前零時を回る瞬間をスマホの画面でちょうど目にして、今日のはじまりをなんだかぐっと感じた。

 六月二十日が去り、六月二十一日が、やってきた。


 ……そして翌週のテスト期間はアタシはひぃひぃ言いながら過ごすことになった。付け焼刃の勉強ではあったが、最低限戦いになるレベルの抵抗はしてみせたつもりだった。

 なにせ、テストは二十四日からであり、アタシが本腰入れ始めたのが、二十日からだったからだ。


 わはは。知ってた。遅すぎたというのは。なんか、みんなと一緒だとどんな問題でも解けるとか、かっこよく言って見せたがそれにしたって遅すぎたわけだ。

 まぁ、いいじゃないか。友情のありがたみを感じたのは本当なんだから。……いいという事にしておいてほしい。


 あと、それからアニキだったが、やっぱり彼女ができたらしい。

 会わせろと言ったが、「絶対会わせん」と言われてしまった。

 そう言いながらも、なんだか嬉しそうな顔をしているアニキを見て、やっぱり恋愛って楽しいのかななんてちょっとだけ興味を持った。


「ねえ、いいじゃん、今度夕飯に呼びなよ」

「なおさらダメだね」


 何がなおさらなのか不明だが、アニキはどうあっても紹介する気はないようだ。

 不思議なもんで、これまで会話なんてほとんどしなかったアタシたちが、この日を境に少しだけ話すことが増えたようにも思った。

 なんとなく、アニキの雰囲気が変わったからかもしれない。大学に入ってなのか、カノジョができたからなのかはわからないが、人は変化していくものなんだなと、アタシは生意気にもうんうん頷いていた。

 もう、空気のようなアニキはそこにいなかったからだ。人格みたいなものは変わっていないけれど、アニキを包む色合いみたいなのが全然違って見えた。なんだかそれを見ると、うらやましくも思えたのだ。


 いつか、アタシもカレシが出来て、変わるのかもしれない。

 変わりたくないような、変わりたいような。

 この奇妙な感覚はいつまで続くんだろう。もしかしたら、大人になっても一生ついて回る感覚なのだろうか?

 変わりゆく日々に、変わらぬ生活を求め、アタシは毎日を過ごしていくのかもしれない。

 そんな当たり前がなんだかとても尊く思えた。相変わらずやりたいことはやっぱり不透明だったけど、変化は否応に訪れる。そのきっかけというのは、いくらでも転がっているのだと気が付いた感じだった。

 ひょっとすると、これまでやりたくないからと無視してきたその先に、きっかけがあったかもしれない。好きなものを見つけるためのきっかけが。


 これまで避けてきたものに目を向けてみてもいいかもしれない。

 例えば、うん。それこそ、恋愛とか。ガラじゃないのは分かってるけど、そのガラだって変わっていくかもしれない。そしたら、アタシも夢中になれるものを見付けられるかもしれない。


 人は、人と接することで、自分の色がゆっくり滲むように変わっていくのだろう。そんな奇妙な共鳴があるように信じられる。

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