第20話

「父さん、ちょっといいかな」

 おじさんを見捨て家に戻っての朝食後、縁側でラジオのアンテナを曲げ伸ばして悪戦苦闘する父に声をかけた。

 居間のテレビは母に独占されがちなので野球のシーズン中父はいつもこうして苦労している。今はデイゲームに備えて電波を探しているようだ。モミジが見れば誤解しそうな光景ではある。

「どうした。今日は出かけないのか」

 大学進学までおじさんとずっと一緒だった父なら何代も前から続く照山家に宇宙人がいる摩訶不思議について直接は知らなくとも語る内からわかることがあるに違いない。

「聞きたいんだ。モミジのお母さんのこと」

 特にモミジの母親については具体的な答えを期待できる。モミジが俺と同じ日に同じ病院で産まれた以上、父はその人を知っているのだから。

 首だけで振り返っていた父はしばし思案顔で唸り、やがてラジオのスイッチを切って床へ置いた。続いてあぐらに組んだ膝をぽんと叩く。

「お前も分別はつく年頃だろう。聞かせてやるから、座りなさい」

 誠意が伝わればと思い正座を取って父と向かい合う。すると父は急に頭を下げた。

「お前とモミジちゃんは同じ日に産まれたと教えたが、あれは嘘だ。すまん」

 期待していた新しい情報があまりに予想外でがつんと殴られたような気がした。だから運命を感じていた部分もあったというのに。まっ先に聞かされるのがそんなことだとは思いもしなかった。

 意識が揺らいでいる間にも父の話は続く。

「久士くんが大学進学で上京して、それっきり何年も帰らなかったのは知っているな」

 俺が最も照山久士の存在を疑っている時期だ。宇宙人のすり代わりであるならばその時が最も辻褄が合う。しかし、そうであって欲しくないとも思う。俺の知るおじさんが父を騙しているようなことがあってほしくない。

 果たして本当に照山久士なのか。父との友情は本物なのか。俺の疑いを知らない父は話を続けた。

「父さんが久士くんと再会したのは十二年前。久士くんは産まれたての赤ん坊を連れていた。それがモミジちゃんだ。だから父さんもモミジちゃんの母親には会ってない。どんな事情があるのか、久士くんも話してくれなくてな」

「それじゃあ戸籍は?」

 母親の欄はどうなっているのだろうか。気になって聞いてみると、父は少し驚いた顔をしてから笑った。

「お前は鋭いな。役所に出生届を提出するには病院が発行する出産証明と、妊娠がわかった時に役所で交付する母子手帳が必要になるんだが、久士くんはどちらも持っていなくてね。そのままでは戸籍に登録できなかった。それで久士くんは父さんに頼んだ。この子がこの町で暮らせるよう協力してほしいってね。父さんは配属された住民課に慣れて一人でもある程度仕事ができるようになった頃だった。そこについてあんまり詳しいことは聞くな」

 モミジをこの町の住人として登録する為、何かしら不正をしたということなのだろう。父がそうしなければモミジはいなかった。もしくは、おじさんがもっと大胆な行動に出ていた。どちらの理由からでも父に感謝しなければならない。

「父さんは割りと真面目な性格だから、とても迷った。でもその話を聞いた日にお前が予定日より二週間も早く産まれてきたんだ。そりゃあかわいくてな。久士くんも同じ気持ちなんだろうと考えたら断れなくなった。こんなことを言うと馬鹿みたいだと思うかもしれないが、お前がモミジちゃんに会いたがって早く産まれて来たように思えてな。今お前たちが仲良くしてるのを見て、あながち気の迷いでもなかったと思ってるんだが」

 流石に照れ臭く何も言えず、膝を撫でる父の手を見る。知らないところでこの手に守られてきたことが何度もあった、そうなのだろう。

「このことは父さんと久士くん、あとは母さんしか知らない。爺さん婆さんは久士くんが別れた女に子供を押し付けられたと思ってる。それだと聞こえが悪いから周りには死別だと言ってあるがね。この辺は古い土地だから、その方がよかったんだ」

 地球は地球で事情が混み合っている。

「そのあと婆さんと母さんが取り上げるような感じで子育てを買って出て、あとはお前も知ってる通りだ。あの頃は久士くんがちょっと、その……様子がおかしくてね。よほど辛いことでもあったのか家に閉じこもってばかりで、まるで笑わなかった。別人みたいに……そうだな、別人のようだった。だから、というのもあったんだ。ただでさえ男手一人じゃ子育てなんてできないだろうって」

 やはりその時期に入れ替わりが行われたと考えていいのだろうか。おじさんが宇宙人の初代で、父が感じている友情は既に失われたものだと考えていいのだろうか。そうだとしたら受け入れ難い現実だ。

「お前が知りたがっている肝心なことを父さんは知らない。知っていても父さんが関わっていないこれ以上先のことを言うべきでないとも思う。お前にももう、お前だけの秘密はあるだろうからわかるな? 夜中外に出てること、知ってるぞ。それに今日は朝帰りか」

 どきりとして震えてから、おかしな挙動をしないように抑えた。だがそれでも父の微笑は何もかも見抜いているように思えた。

「今までと違うこともしたくなるんだろうが、あとで笑って話せるようなことにしておいてくれよ。ただし、もしモミジちゃんを連れ出してるんならすぐにやめなさい」

「そんなこと、してないって」

 どもりながら否定すると頭を乱暴に撫でられた。尻の辺りがむず痒い。

「お前も大きくなったからな。すぐにそういう話で久士くんがやきもきするようになるんだろう」

 その辺のことはもう始まっている。おじさんはやきもきなんかでは済まさないが。

「もっと大きくなったら、いつかモミジちゃんは自分の出生に直面しなきゃならない。辛いだろうからその時は支えてあげなさい。例えばモミジちゃんが結婚で戸籍謄本を請求する時、お前がそばにいるつもりならな」

 そのつもりはあるものの返事はできず、うろたえながら腰を上げその場を離れる。

 礼を言うのを忘れていることに気付いて振り返ると父はまたラジオのアンテナを伸ばしてくるくる回していた。

 内緒話は終り。そう感じ取り体の向きを戻して玄関を目指す。

 母や祖父母に尋ねても父以上に詳しくはないだろう。ならばこれ以上はおじさんに直接尋ねるしかない。父から話を聞いたと伝えればもう誤魔化しはできないはずだ。

 この町を出たおじさん――かつての照山久士がどうなって、それまでのおじさんが何をしていたのか。そこに全ての秘密がある。

 隣家へ行くつもりで玄関へ回ると外から大きな声が聞こえた。表で祖父が騒いでいる。

「どっから来たか聞いてるだけだろが。怪しい奴め! 怪しい奴め!」

 何事かと駆けつけると、祖父が垣根の陰で丸まった背中を竹箒で叩いていた。

「や、やめ」

「ハッキリせんか!」

 広い背中に分厚い胸。屈強な男が腕で頭を覆い竹箒から身を守りながら家の前を逃げ回る。ただ伸びただけというようなぞんざいな髪型に顔のほとんどを隠し、下向きに引きつった口元に気の弱さが滲む。

「タカシ、手伝え。こいつが前をうろうろしてうちを覗いとったんでな」

 田舎の特徴か、普段見かけない輩が生活圏へ入ってくると強く警戒する老人がこの辺りには多くいる。祖父がその筆頭だ。

「まあまあじいちゃん、血圧上がるから」

 竹箒を取り上げてなだめようとすると、逃げ回っていた男が腰にすがりついてきた。

「うわっ! なんなんだ急に!」

 相当恐かったのか振りほどこうとしても離れない。つい、びくともしなかった。

「う……あ」

 男が手にしている物を見てぎょっとした。掌大の人形。赤いタイツに身を包みポーズを決めるヒーロー、赤仮面のフィギュア。細かい部分まで精巧に再現されている。ただし体の大きさは成人サイズだ。マフラーまで身にまとい、俺本人よりよっぽど決まっている。

「お前これ!」

 思わず掴むと、それまで小さくしゃがんでいた男が突然伸び上がって覆い被さってきた。抵抗する間もなく組み伏せられる。

「いいから! こいつ俺の知り合いだから!」

 落ちた竹箒を拾い再び振りかざす祖父に向かって叫ぶ。男は俺を下敷きにして赤仮面フィギュアを取り返すとそろそろと離れた。取られたくない、それだけだったらしい。動作は臆病なばかりで敵愾心を感じない。

 しかし体の大きさと力強さで感じ取った。体育の授業の手抜きと違い本気を出しても押し返せなかった。こいつは薔薇仮面、花弁の方の薔薇仮面だ。

 それにしても一体どうしてしまったのだろうか。昨日の印象とはまるで違い、まったく頼りなく弱々しい。おどおどとした様子がモミジを連想させてなんだか放っておけない。イライラもする。

「おい、ちょっと場所変えよう」

「あう」

 話を聞くには祖父が邪魔だ。完全に不審者を見る目つきをしている。

 移動するならやはり朝露――茨の薔薇仮面もいる照山家が適切だが、入るところを祖父に見られると面倒なことになりそうだ。そもそもこの男とまともに話ができるのだろうか。

 背中を丸めて小さくなっている挙動不審を見下ろしどうしたものか悩んでいると、騒動が聞こえたのか隣から朝露が飛び出してきた。男を見るなり眉を吊り上げ、つかつか力強い足取りで近付いたかと思うとスカートを跳ね上げ踵で顎を蹴り抜いた。

「いるならなんで入ってこないわけ? 挨拶が遅れるっての!」

 致命的な角度で命中したように見えたが、男は一歩後ろに下がっただけで踏み止まった。痛そうな素振りすらない。

「ご、ごめ……あのしら」

「弁解はいいから早くしなこのグズ!」

 怒鳴り声に牽引力でもあるかのように、男は朝露の尻を追って照山家へ入った。完全に服従させられている。夜中に戦った二人のヒーローの姿とかけ離れているが、違うはずもない。

「とにかくじいちゃん、なんでもないから気にしないで」

 呆然とする祖父を放置し二人に遅れて照山家へ入る。丁度玄関では四人揃って初対面の挨拶が行なわれているところだった。冷や汗のおじさんが二人をモミジに紹介している。

「えー、彼は朝露ブンブンくん。キラキさんのえーと、双子の弟だ」

「ど、ども」

「あー……はい。初めまして、照山モミジです」

 不審人物改め朝露ブンブンの手には赤仮面フィギュアがまだ握られていて、絡め取るようなモミジの視線が注がれていた。目に触れるとまずいという意識がまったく見えない。目眩がしてくる。

 玄関に入ると普段以上に大きく見開いた目でモミジに見られた。

 表情が驚きを伝え、視線で確認しようとしている。自身赤仮面を見たことがなくとも目撃証言を集めているのでフィギュアを見てそれが赤仮面であると確信したのだろう。

 当然俺としてはガッツポーズで答えるわけにはいかない。黙って無表情を装いモミジの注意が離れるのを待つ。

 いや待て、もういいのかもしれない。ばらしてしまっても少なくとも爆死しないことはわかっている。しかし話すとしたらなぜ今、ということにもなる。赤仮面の目的も説明できない。自分を救う反政府主義者の一員と信じているのだから、単なるヒーローごっこだと知られたら失望される。

 悩んでいる内にモミジは赤仮面フィギュアに目を戻していた。珍しく作り笑顔で、ゆっくりとした動作でフィギュアを指差す。

「あの、これ……かっこいいですね」

 モミジにしてみれば鎌をかけたつもりだったのだろうが、反応は絶大だった。

「うん!」

 ブンブンの口元の引きつりが上へと反転し狂気染みた笑みを作った。ぐっとモミジの手を握り更に胸へと押し付ける。モミジは動転して目を白黒させている。

「え、なに……くれるの?」

 ぐいぐいと押し付けながら心底嬉しそうに頷いているのを見てむかむかと怒りが込み上げてきた。モミジに触っている。手だけでなくこれは胸にまで触っているんじゃないか。

「ほら、恐がってるでしょ」

 キラキが二人を引き離すのを見て踏み込みかけた足を戻し拳を弛める。危うく文化的でない手段に打って出るところだった。

 危ない。今の様子を見ていると忘れそうになるが、目の前にいるのは俺よりも遥か高いレベルにいる本物のヒーローだ。

 一人息を吐いて緊張を解いたところで、おじさんの紹介が再開した。

「二人はこの町に越してきたんだけど、親御さんはまだこっちには到着してなくってね。困ることもあるだろうから、何かあれば相談に乗ってあげてほしい」

「うん……わかった」

 場を取り繕おうという意図が見え見えのおじさんの早口の説明にモミジは生返事で答えた。父方とは疎遠で母方とは繋がりがない状態でなぜ突然親戚が出現するのか。親の仕事は何でどうしてまたこの辺ぴな田舎へ越して来たのか。なぜ中学にはキラキしか編入していないのか。疑問点は様々あるはずだがモミジは手元の赤仮面フィギュアに気を取られている。

 どうしていいかわからずにいると、キラキが顔を近づけて耳打ちをしてきた。

「あんた、頼んでもいいから私をあの子と二人にするんじゃないよ。ものすっごい敵視されて朝ご飯食べづらいったらなかったんだから」

「知るか。どっか薄暗い物陰で不思議な不思議な宇宙食でも食ってろ」

「あんたねえ、私たちがあんたを生かしてやってるってこと、わかってないみたいね」

「脅しは意味ねえ。強行できるんなら様子見なんてする必要なかったはずだろ。お前らはお前らで何かに制限されて動けない。違うか?」

 ヒーローポーズと口上。おじさんが俺に押し付けたヒーローの常識。同じ認識が彼らにもあるようだった。ならば、赤仮面五則と似た規則もあるかもしれない。全天平和維持機構というのがどういう組織なのかはまだ判然としないが、組織である以上そこにはルールが存在する。

「わかったようなことを言うじゃない? モグリの分際で」

「てめえらのことなんてわかる必要は――」

 言い争いになりかかったところでおじさんが割って入ってきた。

「話はあとで、今はとにかくスムーズに話を進めてくれたまえよ」

 またいちゃついていると誤解されるとまずいのでおじさんの要望には賛成なのだが、朝露姉弟がこうして当たり前のように俺の日常へ入り込んできていることが癪に障る。様子見が済んだのならさっさと俺の疑問を残らず晴らして宇宙へ帰ってもらえないものか。

「一人分パスタ残ってるから……ブンブンくんの分の朝ごはんはそれでいいかな?」

 モミジはまだ渡された赤仮面フィギュアに釘付けで上の空になっている。

「ああ、ありがとう。あとはもういいよ」

「わかった。じゃあこれ飾ってくる」

 上機嫌で廊下を駆けて行くモミジについていこうとするとおじさんに捕まった。

「どこへ行くんだ。君はこっち側だろう」

「なに言ってんですか、俺がモミジ側じゃないはずないでしょ」

「君、何かモミジに話すつもりじゃないだろうね? 犬歯が安全とわかったからといって、君をどうにかしようと思えば方法は幾らでもあるんだよ。そこわかってる?」

 そんなことをするはずがないとは思っていてもおじさんの表情は追い詰められ神経を削られたギリギリの凄みで漲っていた。なにをしでかすかわからない危うさがある。

「父さんからモミジが、いや俺が産まれた時の話を聞きました」

 言うと、おじさんは諦めたような沈んだ顔をした。手が離れ拘束を解かれる。

「話すつもりなのか、モミジに」

 脅かすつもりはない。ただモミジのことを真剣に考えているのは自分だけではないことをいい加減にわかってほしかった。騙されていたことに不平を言う気がないことも。

「言えるわけないでしょ。俺が知ってることだけじゃモミジを安心させられない。正体不明の母親がますます謎になるだけじゃないですか。モミジは昔っから、名前だってわからないのを我慢して――」

「|笹乃葉≪ささのは≫サラサ」

 ぽつりとした呟きに喉が止まる。問いかけはせずに待つとおじさんは遠くへ目をやって頷いた。

「名前だ。笹乃葉サラサ。モミジの産みの母親で、私の愛した女性のね」

 思い出しているのか懐かしむような微かな笑みに寂しさが紛れているのを見つけて、本当に亡くなっているのだと知った。

「お取り込み中悪いんですけど、それより話を進めませんか?」

 冷ややかな声で間に入ったきたのはキラキだ。髪の毛を弄びいかにも退屈そうにしている。こちらの事情に気を遣うつもりはないらしい。モミジのことは彼らに関わりがないことだから無関心でもしょうがない。だがしかし平静ではいられず横目に睨んだ。それもどこ吹く風で受け流される。

「ああすまなかった。もう完成しているから移動しよう。おっと、その前にブンブンくんの朝ごはんがまだだったね」

 閃き、おじさんが二人を案内するより先にリビングに飛び込む。対面式のキッチンでラップに閉じられたパスタと、フライパンで蓋に水滴をつけているソースを見つけた。まだ温かい。手早く皿へ移して合わせるとホワイトソースに溶けたチーズが香って既に朝食を取り込んだはずの胃袋が欲望を訴え始めた。

「いただきます」

 勝手知ったる家の戸棚からフォークを取り出し喉へ流し込む。

「あーあー、なにやってるんだい君は」

 あとからやってきたおじさんが眉を潜める。俺が何をしたいのかわからないのだろう。それでいい、自分でもわけのわからない嫉妬だ。

 最後の一本を飲み下すと指を咥えて悲しそうにするブンブンに向かって、殴り飛ばす勢いで指を突きつけた。

「ごちそうさまでした」

 何が悲しくてこいつがモミジの料理を食べるのを見なくてはならないのか。

「早く話ができて丁度いいじゃない。空腹くらいで根を上げるんじゃないわよ」

「ぐう」

 しょぼくれた背中を蹴りつけながら歩くキラキに続いて廊下へ戻る。極端に胃が膨らみ動くと飛び出してきそうで気持ちが悪い。口に手を当ていざという場合に備えていると、おじさんが横へ来て顔を近づけてきた。

「一体どうしたんだい。いつもの君らしくないじゃないか」

「ただの思春期です」

「なんだいそれは? 頼むよ。君がしっかりしてくれないと僕の立場も危ういんだ」

 どうしっかりすればいいのか、それさえわからないから苦労している。それを知ってか知らずかおじさんは肩をすくめて気楽な素振りを見せる。

「それで、今から一体どこへ行くんですか」

「地下だよ。随分前から取り掛かっていてね。予定より遅くなったが大急ぎでさっき完成させたんだ。赤仮面秘密演習場、とでも呼ぶとしようか」

 楽しげにしているが、俺としてはあまり気乗りしなかった。

 演習場というからには戦闘訓練が目的のはずだ。そこへ薔薇仮面の二人と一緒に向かっている。キラキは休戦と言っていたが、それなら演習場は必要ないはずだ。

 まだ続く。そんな予感がした。

 庭の隅にある物置へブンブンとキラキが入っていくのを不思議に思いながらついていく。おじさんのあと、最後に入るとすぐに入口の戸が閉じられた。庭いじりの道具が放つ土の臭いしかない薄暗闇。

 一体何をしようと言うのか。疑問を口に出す前に今閉じた入口が開け放たれた。すると、そこは照山家の庭ではなく広大な空間へと変わっていた。太陽もないのに明るく照らされている、ただただ広大な平面。

「広さは市内にあるスタジアムの十倍ってとこかな。まあ充分だろう」

 一歩踏み出すとごく普通の土の感触が靴底にあってむしろ違和感を覚えた。晴れ続きの校庭と違わない固い地面だ。天井も、今出てきた物置が背負っている垂直の壁も同じく土でできているようで、どの方向を見ても黄土色しかなく見渡すと平衡感覚を失いかける。光源はどうなっているのかどこを見ても一様に明るい。

「ここ、本当に地下ですか?」

「ああ。うちの地下に球状に作ってある。ここなら思いっきり暴れてくれて構わない。異層空間といって空間の存在自体を擬似的にずらしてあるから、衝撃どころか音や電波といった振動からして外へは伝えない」

 宇宙の技術には驚きを通り越して最早呆れるほどだが、今更生活の下に出現した非日常に驚いていられるほど俺もまっとうに生きてはいない。

「それじゃあつまり、ここでは何をやってもバレないんですね。じゃあ――」

 呟くと、薔薇の二人が後ろへ飛んで身構えた。こっちに向って何か叫んだような気がするが、もうよく聞こえない。

「モミジ、俺は――」

 作った拳で地面を叩き、大声を出してただ泣いた。

 俺はモミジを騙している。モミジが望んだそのままの生活も守れなかった。だったら俺は一体何の為に存在しているのか。自分も騙されていたから、巻き込まれただけだから。そんなことを理由に挙げて身動きのできない振りをして、一体何の為に。

 挙句の果てに現われたヒーローに負けた。それも気持ちで負けた。これがもし本当に敵だったなら、もうモミジはいなかったかもしれない。

 俺はヒーローでも、誠実でもない。

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