第17話
今、目の前で何が起きているのかを理解するまで時間がかかった。
「ねえ! あれって――ねえ!」
すっかり興奮したモミジが掴む左腕がぶらぶらと揺れる。注意を払う余裕はないが俺と同じものを見ているはずだ。
路面電車が通過したばかりの線路の上の仁王立ち。赤仮面と見まごう赤い覆面全身タイツ。路面電車の窓から転げ落ちた子供を、滑り込んできたそいつがそっと受け止めて車内に戻した。見たままを言えば突然現れたヒーローが子供を救ったと、そういうことになる。
全身が赤で統一されている点は赤仮面と同じだ。違うのはマフラーをたなびかせていて、頭部は滑らかな突起が波立つなどデザインが違う。
形状はまるで花、薔薇のようだ。体が大きくずっとヒーローらしいところが何より俺、赤仮面とは大きく違う。
おじさんとモミジ以外の宇宙人と接触する。いつかはこんなこともあると心のどこかで考えていた。しかしまさかこういう形になるとは。おじさんと同じ趣味を持った宇宙人。それだけで済めばいいが、胸騒ぎが激しい。
視界をモミジの背中が塞いだ。なんのつもりなのか手を広げ、まるで俺を庇うような体勢を取っている。
「タカくん、逃げて」
あまりのことに混乱する中、たった一つのことが理解できた。モミジに守られている。
「タカくんに手を出したらいくら貴方でも許さないから――赤仮面!」
いつも気弱に曲げている腰を伸ばし、モミジは堂々と赤い全身タイツと対峙している。
赤く、人助けをする覆面。勘違いするのも無理はない。敵対する俺に危害を加えると思ったのだろう。そこだけは、正解になるかもわからないが。
「お前こそ下がってろ」
違うと訂正することもできず歯噛みして、モミジの更に前へ出ると正体不明の覆面ヒーローを睨みつけた。細かい視線のわからない覆面もこちらを見ているような気がする。たまたまここへ、俺の前に現れたなんて偶然を信じられるわけがない。
なんだよ、何の用だよ。名乗れよ、それがヒーローの義務だろ。心の中で念じる。
ところが、もう一人の赤いヒーローは口上はおろかポーズ一つ取ることなく膝を曲げて飛び去った。跳躍を繰り返して山の方へと消える。通行人の何人かは目で追おうと振り回されていたが、周囲のほとんどは異変に気付くことなく日常が続いている。
「すごい、本当にいた……」
その場にへたり込んだモミジは全身の力を抜き、吐いた息が戻るに従い興奮を高めていく。
「本当にいたんだ、赤仮面。凄いジャンプ力……あんなこと普通の人間――ううん、宇宙人にだってできない。ねえタカくん、あ……」
ぱっと顔を上げて俺を見上げたモミジは、玩具を取り上げられた子供のように表情を一変させた。鏡を見なくともわかる。俺は今相当険しい顔をしている。
「やっぱりタカくん、赤仮面とは敵同士なんだね」
それはモミジにとって認めたくない妄想だったのかもしれない。
「敵とかそんなんじゃない」
今はまだ無関係の誰かで、この先関わらずにはいられない存在。奴がどちらに転じる要素を持っているのか、俺にはまったくわからない。
敵であれ。心のどこかでそう願っている自分がいる。奥歯を擦り合わせながら念じる。言いようのない、恐らく見当外れな怒りが内にある。
赤仮面は、ヒーローは俺だ。モミジを助ける。そう期待されるのは俺だ、俺だけだ。他の誰にもその役回りを譲るつもりはない。
「赤仮面が今私たちの前に出てきたのって偶然なの? それとも何か特別な意味があるの? もしかして何か凄いことが起きてるの?」
俺に遠慮して表情は抑えながらも、モミジは高ぶりを隠し切れないようだ。無理もない。いつまで続くかわからない不安の中ようやく目に見えて変化が起きたのだから。ヒーローの登場は待ち望んだ希望だろう。
初めて目に見えて起きた変化。それは必ずしも喜ばしいものではなさそうだ。だから少しでも幸せな方へ妄想を傾ける為に、モミジは俺に情報という材料を求めている。
「俺にもわかんねえよ」
吐き捨てるような乱暴な言い草になってしまったことを後悔しながら、久しぶりに本当の胸の内を明かしたような気がして落ち込む。俺が口にできる真実はモミジの助けにならないことばかりだ。
しかし自己嫌悪に浸っている暇はない。これは異常事態だ。これからゆっくり夕日を眺めているわけにはいかなくなった。それはモミジも理解しているらしく、説明せずに停車場を離れても不満は聞こえず足音だけがついてきた。
いつの間にか手は離れ、冷や汗だけが手中にある。モミジがただ黙ってついて来てくれることがありがたく、同時に申し訳なかった。いつも察させるばかりだ。
あれは一体何者だろうか。去り際に見せたビルを飛び越す脚力。普通の人間でないのはわかりきっている。赤仮面と同じ存在とそのままに解釈してもいいのだろうか。身体能力を強化する特殊な着ぐるみを着た、ただし宇宙人。そう考えた方が自然に思える。おじさんの他にもふざけた宇宙人がいて、俺と同じ立場の地球人がいるとは考えたくもない。ややこし過ぎる。
地球上におじさんとモミジの他に宇宙人はいないはずだ。そう聞いている。それ自体嘘だったのか、それとも昨日今日新たに現れたのか。どちらが危険性が高いかを言えば新たに現れた場合だろう。目的が友好とは思えないからだ。もし仲良くするつもりがあるのであれば、スーツを着ずに普通に接触してくればいい。俺でなくまずおじさんに。
現状は後手と言わざるを得ない。どの程度かはわからないがこちらの事情を知られている。確実なのは赤仮面とその正体。つまり俺のことだ。
とにかく早く帰っておじさんの帰りを待ち、確かめなくてはならない。これがデートを妨害しようとするおじさんの嫌がらせだったらどんなにいいか。おじさんを八つ裂きにすればそれで済む。
喝采町へ戻る電車の中でも無言で、窓の外ばかりを見ていた。時折ちらちらと視線を伸ばしてくるモミジに気付かない振りをする。そばにいるだけで不安が伝わってくるというのに何もしてやれず無力感が募った。
「ああそうだ」
駅から歩き、家の前まで来てようやく話しかけることができた。ただしそれはモミジを気遣ってのことではなく、俺の都合によるものだ。
「おじさんに借りてた本返すから、あとでそっち行く」
すぐにでも話を聞きたい。おじさんならば必ず何か知っているはずだ。
こういう時の為におじさんの蔵書から常に何冊か借りてあった。急な訪問の口実作りに過ぎないもののモミジに内容を尋ねられることもあるので一応目は通さなくてはならない。それを知っていてわざわざ小難しい本を選ぶのはおじさんのいやがらせだ。
普段なら疑われない理由づけもこのタイミングではあからさまに思われてしまうだろう。借りた物を返すだけならモミジに預ければいいことで、本人に会う必要性はどこにもない。それを気にしていられる余裕がないほど、焦りしかない。
「わかった。帰りでいいから、私の部屋にも寄ってね」
モミジは薄く微笑んで特に不審に感じている様子は見せなかった。頷いて返しながら、帰りにはとてもそんな気分にはなれない話を聞かされるかもしれないと不安に駆られる。
あの赤いヒーローが本当に敵だったなら。既におじさんの手に余る事態だったら。悪い想像ばかりが膨らむ。
「タカくん」
モミジを見送ったあと自分も家に入ろうとしたところで後ろから呼び止められた。モミジの声だ。振り返ると叱られるのを待っているかのように申し訳なさそうな顔をしている。
「その……パパ、まだ帰ってきてないみたい」
目の前がまっくらになったような気がした。
おじさんがいない。それでは今何が起こっているのかまったくわからない。対応策を聞けない。頼って、責めて、泣き言をぶつける相手がいない。
「ねえ、大丈夫?」
伏せた目を震わせてモミジが呟くような声を出した。弱々しい響きを聞いて胸が痛む。また守れていない。不安にさせている。
「大丈夫だ。お前は何も心配するな」
精一杯の作り笑顔は強張りを抜くことができず、耳の横を滑り落ちようとした冷たい汗を人差し指で捕らえもみあげに擦り付けてごまかす。
絶望しか見えないと言えるはずがあるか。
玄関に立ち尽くして考える。努めて冷静に考える。頼みのおじさんがいない以上問題が起きたら自力で解決する他ない。
おじさんは逃げたのだろうか。現れた正体不明のヒーローが宇宙人絡みなのは間違いない。覆面タイツとあの跳躍力が証拠だ。
だがそれならそれで、おじさんが自分だけ逃げるとは考えられない。これまでモミジを最優先に行動してきたおじさんだ。この大前提が崩れてしまえばこれまでのことが全て嘘になってしまう。そう慌てる事態でもないが、いつものように説明に苦慮して雲隠れした。その程度であってほしいと願うばかりだ。
「あら、あんた帰ってたの。何やってんのそんなところでぼけっとして」
玄関で一人脂汗をかいているところを母に見つかってしまった。
「あ、そうだ。久士くんからあんたにって伝言があるんだった」
母は父に習いおじさんを名前で呼ぶ。
「おじさん帰って来たの? 今どこに?」
「何慌ててんの、電話だよ。用事が長引くからモミジちゃんをよろしくってさ。まったく、仕事もしてないくせになんの用事だろね」
モミジをよろしく。見捨てて逃げるのなら「よろしく」は不自然だ。任せたのなら、俺だけでも解決できるということなのだろう。希望はあるのだと信じたい。
「晩ご飯一人分作るの面倒だろうから、モミジちゃん呼んできな」
「悪いけど母さん呼んできてくれないかな」
「なあに? あんたたち喧嘩してんの? ちゃんと謝っときなさいよ」
悪者と判断されていることに納得のできない想いを抱えつつもてきとうに頷いて横をすり抜ける。自分の部屋に入り部屋着に着替えようと腰へ手をかけたところで、ウェストポーチに意識が移った。
今日モミジに貰った、新品のこわばりで膨らんだそれ。今頃モミジと二人夕暮れを待っていた可能性の証明。邪魔者が目の前に現れることさえなかったなら。
一体どうしてこう問題ばかり山積みになっていくのか、考えると泣きたくなってくる。俺はただ、モミジと過ごしたいだけなのに。
昨日に続き一膳増えた食卓。母を中心に賑やかだが、俺個人としてはとても静かな夕食だった。団欒は他へ任せ黙々と食べながら考える。昼間見たあれがまた現れたらどう対応すべきか。
説得しようにも俺はあまりにも状況がわかっていない。逆に丸め込まれてしまう危険がある。なら戦うか。それこそ問題を大きくしてしまう。土台敵うかどうかもわからない。
俺がわかっていないのはスーツについても同様で、おじさんから散々に言われていることを考えると戦闘力に関しても分が悪いように思えた。無敵の変身スーツという宇宙技術を使いこなせるかどうかという点では当然相手方の宇宙人に軍配が上がる。
「おいタカシ。モミジちゃん来てくれてるのになんだ、暗い顔して」
祖父の厳しい目つきに腹が立った。俺はいつだって、誰よりもモミジのことを考えて生きている。少なくともモミジを引き合いに出して叱られる言われはない。それに俺を責める糾弾者なら、俺自身に勝る者はいない。
「なんだ、背も伸びないのに一丁前に反抗期か」
馬鹿にされ、反省の言葉はいよいよ出難くなる。
「ごちそうさま!」
まだ食べ終わらない皿を流しへ運んで自室へ逃げた。背中に聞いた笑い声を思い出しながら布団に包まって叫ぶ。俺は一体何に追い詰められているのだろう。その正体すらわからなくなってきた。
「タカくん」
一人になったつもりでいた。くぐもった声を聞いて驚き布団を放り出すと入口にモミジが立っていた。
「ちょっと、話したくて」
襖を閉じる前に見せた廊下を気にする素振りを見るからには内緒話のようだ。引き締まる口元に強い意思が感じられる。
部屋の壁は押入れのある一面の他は隣に通じる襖になっているので、聞かれたくない話なら部屋の中心に寄って声を潜めなくてはならない。こんな時でも、膝と額の触れそうな距離が照れくさい。それはモミジも同じらしく互いに下を向いた。
「昼に見た赤い人のことなんだけど……あの人、やっぱりタカくんの敵なんだよね」
正体不明のヒーロースーツ。敵と決まったわけでもないがその公算が高い。そのつもりで覚悟もしている。しかしモミジはあれを赤仮面と勘違いしていたはずだ。何故今更〝赤い人〟と呼ぶのか。不思議に思う気持ちは伝わったようだ。
モミジは胸に手を当て、深く頷いた。
「うん。落ち着いて思い出したら、あの人今までの目撃情報と全然違うし、赤仮面じゃないと思う。それと実を言うと……私タカくんが赤仮面なんじゃないかなって思ってたんだ」
凍りついた。
「その……背が小さいって聞いてたからじゃなくって、そうあってほしいって、願望だったんだよ。私を助け出してくれる人が私の好きな人ならいいなって。……でもそういうことじゃないんだよね。昼間見た赤い人や赤仮面がどんな人でも、私が一番に信じてるのはタカくん。助けてほしいのもタカくん。誰が出てきても関係なかったんだよ。でも」
一区切りの間に気遣う笑みが消え真剣な表情になる。
「無理して頑張らないでいい。私を見捨ててタカくんが楽になるんなら、そうして」
目つきはしっかりとしているが眼は涙が滲んでいる。どうやら、腹の立つことに本気のようだ。
「なんだよそれ」
短い間、心臓が停止していたように感じた。今も指先から徐々に体が冷えていく。
「血の色が違ったってみんな優しいもん。だから今のままでも私は我慢できる。でもタカくんのことは無理。タカくんずっと恐い顔してる。もしかしてあの赤い人と……戦わなくちゃいけないんじゃないの?」
的外れな思い込みを積み上げ妄想を作り上げたくせに、今夜はやけに正解へ踏み込んでくる。
「あの人が赤仮面と同じような人なら車とかへっちゃらで持ち上げるんだよ? タカくん全然運動できないのに勝てるわけないよ。私を犠牲にした方が簡単ならそうして。私はどうなっても――」
「モミジ」
掴んだ肩は細く、身長こそ俺より上でもやはり女だ。この肩に命を投げ出す覚悟を乗せておくわけにはいかない。
「俺は頼りないか?」
「ううん。そんなことない」
「だったら任せろ、信じてろ。必ず俺が助けてやる」
その自信があるかと言えば、無い。だがしかし腹の底から湧き上がる感情に押されて出る言葉には力が漲った。
「無理だよ、もうやめてよ。赤仮面も今日見た人も人助けしてるもん、正義の味方だよ。そんな凄い人たちと戦ったら、タカくん私のせいで悪者になっちゃう」
「お前を追い詰める正義なら俺がいくらでも叩き潰してやる。俺はお前と一緒にいたいんだ」
「そんなの私だって……私だって」
倒れるようにしてすがりついてきたモミジを抱き締める。照れが出る前に犬歯が疼いた。痛みとして感じるほど強烈に。今までにない反応に見合うだけの激しい平和の乱れが起きたということか。思い当たることは一つ、昼間見たあれだ。
犬歯の疼きはおじさんの任意で起きていると思っていたが違ったのだろうか。それとも不在と見せかけて潜んでいるのか。今そんな想像はするだけ不毛だ。発生した問題を俺一人で解決する。うるさい声がないだけ気楽な、今まで通りのいつも通りだ。
「なあモミジ」
唇が触れそうなほど近くにある耳元へ囁きかける。
「今日は早く寝てくれ。起きてると悪い夢を見るかもしれないから」
肩へ額をこすりつけるようにして頷いたモミジを腕に抱き、命を賭して守らなければならないものを改めて確認する。
俺は、今すぐヒーローにならなければならない。
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