第漆話
部屋はろくな調度品もなくがらんとしていた。部屋の隅には薄っぺらな布団が敷かれていて、母親はそこに身を落ち着けると、しばらく呼吸が落ち着くのを待ってから絵師たちに視線を向けた。
「……お見苦しいところをお見せしてしまって……失礼しました。私は茨……この通り、鬼の血を引く者です」
母親────茨は、そう言いながら額の角に触れた。それから、少し戸惑ったような表情で呟くように続ける。
「その……あまり、外の方とは話をする機会がなくて。私は病を得た身ですし、ましてや……絵師の方などとは」
「まァ、妖ならそれが普通の反応だろう。気にするこたぁねェさ」
おどおどとした調子の茨に対して口を開いたのは紅尾だった。普段は暇無しに煙管をふかしている彼だが、このときばかりは病人を目の前にしてまで吸うほど馬鹿じゃねェよ、と煙管を懐にしまっていた。
茨は彼の言葉にようやく安心したように笑みを浮かべると、改めて一同を見回した。
「それで、どうしてこの子たちを……?」
春臣と夏樹は、茨にかいつまんでこれまでのことを話して聞かせた。彼女は最後まで静かに話を聞いていて、彼らの話が終わってもしばらくの間目を伏せて黙りこんでいた。
やがて眼を開いた彼女は、傍に座っていた子供たちの頬をそれぞれなぞって申し訳なさそうに細く息を吐いた。
「……私が至らないばかりに、二葉も幼い初音も不安にさせてしまったのですね……」
それから、彼女はその場で指をつくと春臣たちに深々と頭を下げた。
「皆さまには、何とお礼を申し上げれば良いか……祓われてもおかしくはない所業をしたのに、こうして送り届けてくださって……」
「いえ……頭を上げてください。僕らは当たり前のことをしただけですから」
慌てたように言った年若い絵師に、茨は少し驚いた。妖を助けることを当たり前と言ってのける絵師がいるとは、人の世に来てこの方きいたことがなかった。
しかし、彼女は同時に思った。そのような心根の絵師こそ、これから先の時代には必要なのかもしれないと。先の時代よりこちら、特に十年前のあの惨劇以来、絵師は妖に対してとても厳しい態度をとるようになった。害意のない妖を祓うようになってきており、茨が身に鞭打つように近所に子供たちの行方を尋ねて回ったことも、その情勢が少なからず起因していた。
茨は心優しい絵師に子供たちを救ってもらえたことに感謝しながらも、ふとその柳眉をひそめた。
「それにしても、春神さまには、何と詫びれば良いのか……」
春臣はその言葉にふっと笑みを浮かべた。
「あ、それについてなんですけど……春神さまは怒ってはいらっしゃらないそうですよ。今朝方眷属がきてそう言っていきました」
春臣の言伝に、茨は、まあ、感嘆とも感謝ともつかないため息をついた。夏樹はその様子を見ながら、胡座をかいていた足を組み替えつつ口を開いた。
「それで……急いたような問いかけて悪ぃんだが、あんたのほうで何か知ってることはないか?妙な気配がするとか、そういう類いのものでも構わないぜ」
茨は少し考える素振りを見せたあと、申し訳なさそうに眉根を寄せて首を横に振った。その表紙に、艶のない髪が一房肩口にこぼれ落ちた。
「……私は……もうほとんど力のない妖ですから、何も。それに、ずっと伏せっているので外のことには疎くて……」
夏樹はそっか、とだけ言うと、部屋の中の陰気な空気さえ吹き飛ばしそうな笑顔で礼を言った。茨はそれに応えようとして、また大きく咳き込んだ。今度は少し長くて、兄弟たちがまた心配そうに母親の背や肩を撫でた。
「母ちゃん、薬飲むか?」
母親は二葉の提案に力無く笑って頷くと、喘ぐ息の下でやっとやっと言葉を絞り出した。
「……ええ、そうしようかしら……悪いけれどお水を汲んできてくれますか?それと、お客さまにも──────」
「あぁ、いいっていいって」
彼女の言葉を遮ったのは夏樹だった。彼は筆しか入っていない鞘を引っつかんで立ち上がると、今まさに水を汲みに外に出ようとしていた二葉の腕をとって押しとどめる。それから、布団に伏せた母親を振り返った。
「身体が悪いのに長居して悪化させちまうわけにはいかねえしな。今日のところはお暇するぜ。春臣も、それでいいだろ?」
「ええ、もちろんです」
春臣はすぐに頷いて、それから戸惑い泣きそうな顔をしている二葉たちに視線を合わせた。
「……また様子見に来るから。だから、そんな寂しそうな顔しないで。ね?」
ふわりと笑ってくしゃくしゃと髪を撫でてやると、二葉は口をへの字にした。弟がいたらこんな感じだったろうかと、春臣はふと思った。
「……約束だからな!」
春臣は彼の言葉に笑って頷くと、彼の後ろでふてくされている初音に目を向けた。
「ほら、初音くんも。また一緒に遊ぼう?」
しかし、初音はむっつりと黙ったまま俯くだけだった。茨はくすっと笑みをこぼすと、小さな我が子の背中をとん、と押した。
「……ふふっ、初音。絵師さん方を困らせてはいけませんよ」
初音はしばらく石のように動かないでいたのだが、やがてとてとてと歩み寄ってきて、屈んでいた春臣の首にかじりついた。その様子を見て、茨は嬉しそうに笑みを深めた。
「初音がぐずることはあまりないんですけれど……とても良くしていただいたのね」
茨は伏せたまま、しかしその目にたしかな敬意を宿して、若き絵師たちに対してわずかに頭を下げた。
「……差し出がましいのは承知ですが、私からもお願い申し上げます。どうか、この子たちとこれからも……」
そこから先の言葉は生憎小さすぎて聞き取れなかったが、春臣たちにはそれだけで十分だった。彼らはしっかりと頷くと、一抹の名残惜しさも胸にしまって長屋を後にした。
〈六角座〉に戻る道すがら、四人は人力車に乗った。行きにはほとんど人気がなかった道も、今は威勢のいい声が飛び交っている。人々が纏う服は、先ほどまで褪せた着物を眺めていた彼らにはどんなものでも豪華に見えて仕方がなかった。白墨はもともと口数が多いほうではなかったが、このときばかりは他の三人も揃って無口になっていた。
「……なんだか、変な気分です」
ぽつりと春臣が溢したのは、柳町の黒門が見えなくなってしばらく経ってからだった。乗り合わせていた白墨は、ちらりと目だけを春臣に向けた。心の優しすぎる小僧は、泣き出すのを堪えて変な顔をしていた。
「少し戻ればこんなにも人がいて賑やかだったんですね……あの長屋があんなに寂しかったのが、嘘みたいだ」
春臣はだんだん震えてきた声が情けなかった。けれども、今回ばかりは堪えきれそうにもなかった。俯いた拍子に、ぽろりと涙がこぼれて手の甲に当たって砕けた。
「……頭が、おかしくなりそうです……」
とうとう少年は顔を覆った。嗚咽だけはするまいと歯を食いしばっているのが隙間から見えるのがいささか滑稽だったが、白墨は笑わなかった。その姿は無様だが、彼なりに現実と向きあおうともがいている証拠だった。
たぶん、彼は白墨に返事を期待していないのだろう。あのやりとりをした手前、それが当然ともいえる。白墨も、返事をするつもりはなかった。本当は。
「……人の子とは」
けれども、どうやら自分も一寸くらいは優しくなってしまったらしい。この小僧の傍にいると、どうにもこちらまで性格が良くなってしまいそうだ。
気づけば開いていた口を今更閉じることもできなくて、白墨はため息をひとつつくと先を続けた。
「誰も彼もが光に溢れているというわけではないということを……いとも簡単に忘れてしまえる生きものだ」
春臣は白墨の言葉にぐしゃぐしゃな顔を上げた。その拍子に、あの兄弟と同じくらいの年齢の子供たちが道の向かい側にいるのが見えた。冷やし飴を満足そうに食べている彼らと二葉たちにはたったひとつしか違いはないのに、その違いが今の両者を天と地ほどに妨げている。流れる血がほんの少し違うだけなのに、どうして二葉たちにはああいう生活が許されないのか、今の春臣にはどうしてもわからなかった。わからないまま、彼はただ泣いていた。白墨はしばらくその顔を眺めて、目を伏せた。
「お前は今、人の子が持つ影の部分に触れたんだ。その感覚を……忘れるなよ」
沈黙のあと、白墨はそれだけ言うと口を閉ざした。春臣はその言葉と目の前の光景を噛み締めながら、黙って頷くのだった。
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