第陸話

 そうして二葉と初音に案内されてたどり着いたのは、随分寂れた長屋だった。明らかに長い間人が住んでいないとわかる部屋が多く、時折風に乗せて破けた障子の残りかすが鬼火のようにゆらりと揺らめく。不気味というよりは、ただ虚ろで胸を衝くような寂寥感がかき立てられる光景だった。

「……ここの人たちは、ほとんどどっかに引っ越していっちまったんだ。俺たちと同じ長屋に暮らすくらいならって」

 二葉は長屋の入口で春臣たちを振り返ると、ほのかに笑った。普段の強気な表情はなりを潜め、諦めと痛みに耐えるような感情の入り交じった子供らしからぬ笑みだった。初音が手を握ると、二葉はその頭をわしわしと撫でた。きっとこんなふうにして色々な害意を二人で乗り越えてきたのかと思うと、春臣はやるせない気持ちになった。

 長屋の奥のほうに歩いていくと、突然前方の障子戸が開いた。中から褪せた鉄紺の着物を着た初老の女性が現れる。白髪交じりの髪はところどころほつれていて、目にはぎらついた光を宿していた。彼女は二葉たちの姿を見ると、その目つきをいっとう鋭くさせた。

「……あぁ、鬼女んとこのクソ餓鬼どもかい。ここんとこ姿を見なかったね。おかげであの女が居場所を知らないかってうるさくて敵わなかったよ」

 その言葉に兄弟たちが俯く。それを一瞥すると、女はその後ろに控えていた青年たちに目を向けた。訝しんでいたのは一瞬で、白墨と紅尾の頬に走る紋を見て彼らの職業を看破すると興味が失せたように鼻を鳴らした。

「フン、あんたらは絵師か。なら、一発こいつらを祓っちゃくれないかい。こいつらが越してきてからというもの、人がいなくなっちまって家賃が取れねぇってとばっちり食らってんだ。ったく、とんだ貧乏くじだよ」

 春臣はあまりにも歯に衣着せないその言い方に愕然とした。そして、彼にしては珍しいことに、怒りに顔を真っ赤にして兄弟たちの前に立とうと一歩前に出た。いくらなんでもまだ幼い彼らにそんな言い方をする必要はないはずで、元来心根の優しい少年には女の言動が到底理解ができなかった。

 しかし、その肩を掴んで押しとどめた者があった。夏樹は春臣を目で強く制すると、彼のかわりに前に出る。その表情には変わらぬ陽気な笑みがあったが、目はこちらの背筋がぞっとするほど笑っていなかった。それを感じ取ったのは春臣だけではないらしく、白墨は静かに成り行きを見つめ、紅尾はどこか面白そうなものを見物するような表情で煙管をふかしていた。

「悪ぃな、婆さん。オレたちの筆ってぇのは誰かを守るためにあるべきものだから。てめぇみてぇな依頼は受けられねぇよ」

 女もまた夏樹の静かな怒りに気圧されているようで、罵倒されて怒りに顔を赤くしながらも生唾を呑み込んで冷や汗をかいていた。夏樹は春臣や兄弟たちの背中を押してその横をすり抜け、その姿が見えなくなったところで春臣に向き直った。

「あんな手合いと同じ土俵で言い争う必要なんてねぇよ。ほっておけばいい」

 それから、彼は俯いたままの二葉と初音の頭を両手でそれぞれ撫でた。

「……お前らも気にすんな。ああいうのは羽虫程度に思うのが一番なんだ」

「……羽虫」

「そうだ。ああ、蚊でもいいな。ぷーんってうるさいだろ?」

 夏樹がにっと笑うと、つられて幼い二人も笑った。それでいい、ともう一度頭を撫でて立ち上がった夏樹の背中は、さして年齢が変わらないはずなのに、春臣にはとても大きなものに見えた。明らかな悪意や敵意を受け流せるだけの強さはなくて、自分はまだまだ大人ではないと突きつけられた気がした。

 そのときだった。長屋の一番奥の障子戸が開いて、一人の女性が外に出てきた。見るからに貧しそうで、病に冒されていることがわかるやつれた風貌の女性だった。彼女はすぐに二葉と初音を見つけると、ああ、と声にならない悲鳴を上げて駆け寄ってきた。春臣たちはその額に生える角を見て、彼女が二人の母親なのだと確信した。

 女性はまず両腕に我が子を強く抱き締めると、次いで涙をこぼしながら眦を釣り上げた。

「いったい……いったい今までどこにいたのですか……!しかも二人揃って……!母がどれだけ心配したと思うのです……!」

 最初に泣き出したのは初音のほうだった。彼は初めて会ったときと同じように大きな声を上げて何度も何度も謝りながら泣いた。母親は初音を抱き締めると、二葉を見た。普段は努めて笑顔でいてくれることの多い彼は、年相応の顔で涙を堪えていた。

「ごめん、心配させてごめんなさい、母ちゃん……!」

 女性は二葉もまた抱き寄せる。強がりなもう一人の子供もまた、その温もりに堪えきれずに泣いた。

 そこには人も鬼もない、ただの家族の姿があった。春臣はもらい泣きしそうになって、途中からすんすんと鼻をすすっていた。

 ひとしきり無事を確かめ合うように泣いていた家族だったが、ふと母親が春臣たちに気がついた。そして、すぐに眉をひそめる。鬼であるからだろうか、白墨たちに目をとめなくてもその気配でわかったらしい。

「あなた方は……もしや、絵師ですか?」

 警戒の色のある声で問いかけてきた彼女に、夏樹が頷いた。

「あぁ、そうだ。あんたがこいつらのおっかさん?」

 母親はその問いかけに応えようとして、不意に大きく咳き込んだ。すかさず、初音がその背を小さな手でさすった。

「かあちゃ……大丈夫?」

 二葉は母親の身体を支えるようにしてその腕を肩に回すと、春臣たちを肩越しに振り返った。その横顔は、その場にいた誰もがはっとするほど大人びていた。

「兄ちゃんたちも寄ってってよ。……出せる茶菓子のひとつもなくて悪いけどさ」

 無論、春臣たちに異論はなかった。

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