第弐九話

 桐壺は一同を導きながら、かいつまんで事情を説明してくれた。

 その招かれざる来訪者に気がついたのは偶然だったらしい。桐壺が何気なく外界と桜花宮とを繋ぐあの鳥居に止まっていたところ、堤の上のほうから池を見渡す人影を見たのだという。特に害意を感じなかったが、いつまでもうろうろしているので不審に思った桐壺は花散里へ急遽報告をした。その知らせを受けて、花散里が至急の知らせと桐壺自身を寄越した次第だそうだ。

「いやしかし、すぐに方々に会えたのは本当に良かった。私めは鳥目ですゆえ、この暗さで飛ぶのはいささか心許なかったのでございます」

 ぱたぱたと羽ばたきながら言った桐壺になんとも言えない表情を浮かべ、夏樹は彼にひとつの疑問をぶつけた。

「いや、まあ……それはいいんだけどよ。お前はそんな時間に何してたんだ?」

「水浴びでございますよ。日の始まりと終わりに身を清めるのでございます」

 至極当然のように返ってきた答えに、一同は今度こそ反応に困って沈黙した。桐壺はそんな一行の様子を気にすることもなく、少し肩を落として続けた。

「……本当は御君がつくってくださった清めの場が良いのですが、ここのところの騒ぎで清水が濁っておりましてな。致し方なく池の水を」

 日に日に濁りが増しているらしく、特にここ数日は池の水で代用しているのだそうだ。何か違いがあるのか、と喉まで出かかった春臣がどうにかそれを飲み込む一方で、紅尾は正直に言った。

「ハァ……別にどこの水だって変わらねェと思うがね。神仕えは身綺麗にしてなきゃならねェのが大変そうだよなァ」

 その瞬間、キラリと桐壺の目が光った気がしたのは気のせいではあるまい。

「ほほう……紅尾殿、側仕えにご興味が?私めで良ければ心得からみっちりと────」

 猫又は苦い顔で即答した。

「やめてくれ、柄でもねェ」

 これから何者かわからない相手の元に行くというのに、春臣と夏樹は二人のやりとりがおかしくて思わず笑ってしまった。その様子を見ていた白墨には緊張感がない連中だとため息をつかれてしまったが。


 大池の堤下までやってきた一行は、近くの物陰に隠れて通りの様子をうかがった。建物の隙間に寿司詰めになるのは少々窮屈だった。

「あれでございます」

 春臣の肩に止まった桐壺が翼で指し示した先には、ふたつの小さな影があった。背丈は片方が大きく、片方が小さい。年の頃はわからないが、背丈の大きいほうは十あたりではないかと推測された。それぞれが何かを探すように足元の地面に視線を落としながら行ったり来たりを繰り返している。

「……何をしているんでしょう……?」

 春臣が呟くと、桐壺はその肩で難しい顔をした。

「それが、皆目見当がつかぬのです。先ほどからずっとあの調子でして。提灯も持たずにいるのですから、夜目が利くのでございましょうか……」

 春臣は桐壺の言葉に今一度件の人影たちを見た。暁とはいえ夜明け前、灯りのひとつもないと心許ない時分だ。そんな時間に、提灯のひとつもぶら下げずにものを探すのはたしかに不自然だった。

 一方、黙って不審者たちの観察をしていた紅尾はおもむろに隣の相方を見た。

「……今なら気づかれてねェ。どうするよ?朱夏」

 夏樹は不敵に笑って答えた。薄闇でも、その笑みは鮮やかに見えた。

「決まってんだろ、今すぐに─────」

「……待て」

 そこで、やる気満々の夏樹を制したのは白墨だった。夏樹は手を柄に伸ばした態勢のまま固まった。

「は?姐さん?」

 戸惑いを隠せない夏樹の代わりに紅尾が目で理由を問うと、白墨はしばし黙ったまま人影を見つめる。その横顔には、難しい表情が浮かんでいた。

「……白墨さん?」

 ほんの一瞬その表情を過ぎったのは、一欠片の躊躇いのようなものだった。珍しいと思った春臣が名前を呼ぶと、彼女は首を振った。それから無造作に片手を振る。すると、その手には音もなく身の丈ほどの筆が握られていた。白墨はそこで改めて一同を見渡した。

「……生け捕りにするんだろう?なら、むやみに追いかけるよりこちらの方が早い」

 言うが早いか、彼女は地面を這わせるように低い位置で筆を動かした。

 すると、わざと蛇行するように走らせた穂先からは見る間に白い蛇が一匹現れた。それはちろちろと黒い舌先を見せながら、大きなとぐろを巻いて白墨の足元に落ち着く。

 春臣が白墨の画鬼を見るのはあの夜の出来事以来だが、やはり間近で見る画龍の筆術は別格だった。

“まるで本物のようだ”というような表現は似つかわしくあるまい。もはや、彼女の筆先から生まれるものはれっきとした“生きもの”だった。写実性などを一切飛び越した絶技に、春臣は感嘆するしかなかった。

 ふと脇の二人を見れば、夏樹も紅尾も言葉も忘れて白蛇を凝視していた。彼らはこれが初めて見る白墨の筆術であったから、春臣以上に驚嘆しているようだった。

 白墨はそんな取り巻きのことは気にも止めずにその前にかがみ込むと、簡潔に命じた。

「生け捕りだ。……行け」

 蛇は頷くことこそしなかったが、白墨の言葉を正確に理解したようだった。すぐさまするすると音もなく隠れていた物陰から躍り出ると、何やら怪しい人影へと一直線に進んでいく。薄闇の中で見る真白の画鬼は、それだけでひどく神聖なものに見えた。

 しかし、一同が呆けていられたのは時間にしてみればほんのわずかだった。

 白蛇に気がついた人影は、悲鳴を上げて逃げ出した。大きい人影のほうは機敏に動いてなんとか蛇の拘束を逃れたが、小さいほうが一瞬遅れた。その隙を逃さず、白蛇はその脚に絡みついて引き倒す。恐ろしいのだろう、堪らずわあわあとあがった泣き声はやはり子供のものだった。

「初音……!!このっ……初音を放せってんだクソ蛇野郎!!」

 そして、画鬼を引き剥がそうと苦心しながら大きな人影は声を上げた。その声に、薄々勘づいていたらしい白墨と事情を知らない桐壺以外の皆が瞠目する。

「まさか……二葉くん!?」

 春臣が声を発したのと、夏樹が二人のもとへ駆け出していったのはほぼ同時だった。一拍遅れて紅尾が続き、春臣、白墨とその後を追う。

「おい!!」

 夏樹がよく響く声で怒鳴ると、呼ばれた本人はびくりと肩を震わせて驚きに満ちた表情でこちらを見た。その顔は、やはり柳町で出会った少年、二葉だった。

「てめぇいったい何してんだ、こんなとこで!!」

「………っ!」

 夏樹の剣幕に、二葉は顔を歪める。だが、薬屋のときのように噛みつき返すことはなかった。ただ顔を真っ赤にして目の前に立つ夏樹を睨むだけである。

「……はぁ、やれやれ」

 次いで動いたのは白墨だった。彼女は舌を出して子供を拘束している自らの画鬼をひと撫ですると、幼子の前に片膝をついた。そして、白い指先でその前髪をそっと分ける。

 その瞬間、二葉が激昂した。

「やめろ、何しやがるんだてめぇ!!」

 しかし、その言葉もむなしく白墨は子供の額から突き立つ二本の角を露わにしていた。

「鬼子……?」

「……道理で妙な気配がするはずだ」

 白墨はため息をつくと、じっと目の前の子供を見つめた。すると、怒られるのかと思ったのか、子供は目にいっぱいためていた涙をとうとうこぼした。

「う………ぅ……うぁぁぁぁあん……!!」

 そこから先は、火事場騒ぎのようだった。人気のない通りには子供の泣き声も二割増しで大きく聞こえる。

「ちがうんだよお……にいちゃはわるくないの……わるいのはぼくなんだよう!!」

「お、おい初音……!」

 蛇の画鬼にぐるぐる巻きにされているという状況も忘れて、ただひたすらに泣くその子供の懺悔に焦るような声を上げたのは二葉だった。彼はそれまでの反抗的な表情から一変、嘆願するような必死の形相でその場に両手をついた。

「違う、俺のせいだ……!!初音は……弟は、悪くないんだ!!」

 春臣は戸惑って無言で夏樹の判断を仰いだ。こうなってしまっては、きっとお互いをかばい合う問答が延々続くだけだろう。彼は春臣の視線を受けて難しい顔をして黙りこんだあと、深いため息と共に口を開いた。

「……とりあえず、いったんお前らどっちもうちの絵師座に来てもらうぜ。詳しい話はそれからだ」

 少年たちに、異論はなかった。白墨は画鬼を解いて、紅尾が地べたに座り込んだままの子供を抱え上げた。

「……どうやら、思う以上のわけがありそうだなァ」

 その拍子に彼の呟いた言葉が、その場にいた全員の心中を代弁していた。

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