第弐四話
その日の夜。
春臣はひとり、行灯の明かりを頼りに筆をとって絵を描いていた。描くのは一匹の犬。頭の中にあるのは、昼間見た夏樹の画鬼。あの躍動感のある絵に近づきたい。そう思うと、筆をとらずにはいられなかった。
硯から墨をとり、水を入れた小皿に濃さを変えて加えていく。少し厚手の白い紙にまず引くのは、輪郭だ。要所のみをしっかりとした線て捉え、あとは素早い筆づかいで描く。次に水を多く含んだ墨に別の筆を濡らして毛並みを描いていく。薄めのものと濃いめのものをどう足していくかによってできあがるものの印象も大きく変わるので、試し描きとはいっても緊張する工程だ。
やがてできあがった絵を点睛させてみる。すると、夏樹の画鬼には程遠いなんとも愛嬌のある顔立ちの犬が現れた。あん、と舌足らずな鳴き声を上げると、画鬼は机の上から飛び降り、部屋中を走り回り始める。その拍子に粉本を積んだ一角が見事に崩れ去って、部屋は見る間に惨状を呈した。
「あぁぁこらこら、だめだよ!」
どうにかこうにか捕まえると、当の本人はさぞ満足げに腕の中でふんぞり返る。春臣はため息をついてそれを抱きかかえたままため息をついた。
「……うーん……、やっぱり夏樹さんみたいには描けないなぁ……」
どうも精悍さに欠ける顔だ。力の抜ける顔に難しい顔で向きあっていた春臣は、まったく彼女の存在に気がつかなかった。
「────あれはそうそう真似できる代物ではないぞ」
「ふぁっ!?」
突然のことに驚いて、妙な声が出る。見ればまた音もなく白墨が立っていた。しかも、さりげなく粉本が散らかっていない位置に佇んでいるのだから、さすがとしか言いようがない。
「は、白墨さん……驚かさないでくださいよ……」
白墨は春臣の言葉に特に反応することもなく、代わりに彼の腕に抱かれた画鬼に興味を示す。画鬼はしばらく白墨に向かって鼻をひくひく動かしていたが、やがて害はないと判断したのか彼女にしっぽを振りはじめる。とことん警戒心がない画鬼である。
「ふむ……これがお前の画鬼か」
白墨はとっくりとその姿を眺めると、ふっと顔を背けた。そして、容赦のない講評を始める。
「悪くはないが、威容には欠けるな。それから、もっと陰の付け方を考えろ。試し描きだからと手を抜くな」
「うっ……」
耳の痛い所をついた言葉に思わず顔が引きつる。図星だった。
画龍はその顔をちらりと見るも、容赦なく続けた。
「あともうひとつ、想像で描くな。粉本ではなく、もっと実物を観察しろ」
「…………肝に銘じます……」
ぐうの音も出ず、どうにかその言葉だけを振りしぼってうなだれた春臣の顔を画鬼がぺろぺろと舐め始める。それを呆れつつ眺めながら、手厳しい筆神は腕を組んだ。
「想像で描けるということは、それ自体が類い稀なる才だ。……あの朱夏という男は今でこそ荒削りだが、その部類に属する」
天賦の才。そんな言葉が脳裏をよぎった。なんと言葉を発していいかわからず黙りこむしかない少年に、画龍は冷静に続けた。夜の闇よりも黒く、しかし星空のような燦然とした輝きを失わない強い瞳が、真っ直ぐに春臣を射抜いた。
「見たところ、お前にはその才はない。ならば、ひたすら本物、実物を見て描け。手が覚えるくらい描いて自らの画風としろ。……絵というものは、そういう気の遠くなるような積み重ねがものを言う」
しかし彼女は、そこで笑うことこそしなかったが、ふと表情をわずかに緩めた。行灯のやわらかい光も相まって、よりいっそう優しげな印象を受ける。
「……それに、他人の猿真似をしたところではした絵師にもならんぞ。私はこれまで、そうして己の画風を見失い、消えていった絵師をごまんと見てきた」
春臣は少し遠くを見るような瞳で語る白墨を見つめた。 その眼差しは、今までどんなものを見てきたのだろう。どんな世界を映してきたのだろう。
「……話しすぎたな」
しかし、それを問う前に白墨は頭を軽く振って話を切り上げてしまった。春臣はその顔を見ながら、ついつい思っていたことをぽろりとこぼしていた。
「……白墨さんって、なんだかんだいって親切ですよね」
その瞬間、せっかく女神らしい柔和な表情を見せていた筆神はいつも以上の仏頂面に戻ってしまった。彼女はつんとそっぽを向くと、強い口調で言った。
「虫酸の走ることを言うな、たわけ者め」
「す、すみません……!」
平身低頭する春臣を尻目に、白墨は軽く手を振る。次の瞬間、そのしなやかな手の中には百鬼集が収まっていた。どうやら表紙の中に帰るらしい。
「……夜の気は人の身には良くない。さっさと切り上げて寝ろ、小僧」
据わった目で言われてもあまりありがたみがなかったが、彼女の機嫌をこれ以上悪化させるわけにもいかないので受け取っておくことにする。
「おやすみなさい、白墨さん。それから……ありがとうございました」
残念ながら、返事はなかった。白墨は百鬼集とともに一筋の白煙を残して消える。それを少し寂しく思いつつ、春臣はいつの間にか眠っていた画鬼をもう一度抱え直した。消したいのは山々だが瞳が開かないことには朱筆を使えない。
そして、目覚めるのを待つしかないか、とため息をついたときだった。不意に控えめな調子で襖の向こうで声がした。
「……おい、春臣?今大丈夫か?」
予期せぬ訪客に目を丸くして戸を開けると、そこには夏樹が立っていた。
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