第弐三話
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ごほ、ごほ、とくぐもった咳が狭い部屋に響く。それと一緒に、横たわる母の背中が二、三度小刻みに震えた。
「かあちゃ……大丈夫?」
「……大丈夫よ、ありがとう……」
肩越しのやりとり。母は自分が近づくのを嫌がるから、最近は些細な会話も常にこの状態だ。子供の自分に病を移すまいという配慮からなのか、母は床に伏せるようになってからあまり顔を見せてくれなくなった。
しばらくして落ち着いてきたのか、母はまた小さくも規則正しい寝息を立てはじめる。それを合図に、彼もまた遊んでいたお手玉をいじくりだした。母のものだったというそれはもう擦り切れ、あちこち繕った後が目立つ。
子供はそれをしばし持て遊んでいたのだが、すぐにやめてしまった。そして、沈んだ表情を浮かべてうつむく。それからその小さな両手のひらを見て、くしゃりと顔を歪めた。
簪をなくしてしまった。
母が大切にしていた簪なのに。
それに、皆が大切にしているおおいけの桜の枝を折ったと知ったら、母と兄はどう思うだろう。もう口もきいてくれなくなるかもしれない。二人が口をきいてくれなくなったら、どうしていいかわからない。
彼は小さな手で自らの額に触れる。そこには、短いながらもれっきとした角が二本、生えていた。
こんな姿で生まれてきてしまったのに。家族からも疎まれたらと思うと怖くて仕方がなかった。
「ただいま!」
兄が帰ってきたのは、そんなときだった。何かとても嬉しいことがあったのだろうか、その表情には満面の笑みが浮かんでいる。
「にいちゃ……おかえりなさい」
「おう!良い子にしてたか?
角無しで生まれてきた兄は、部屋の隅にいる自分に寄ってくるとわしゃわしゃと頭を撫でてくれる。少し雑でとても優しいその手つきが、彼の張り詰めた心を解きほぐしてくれる。彼はどうにか頬を動かして、飛び出してきそうな感情を抑えてぎこちなく笑った。この兄を、心配させたくない気持ちが先に立った。
「う、うん……お外にも出なかったし、大丈夫だよ」
嘘だ。暁の頃に抜け出して、今日も桜を折ってきた。簪を落としてきてしまったのは、きっと春神さまの罰なのだろう。
大切な家族にすら嘘をつくような悪い子には、罰を与えられて然るべきなのだ。そう思うだけで涙が溢れてきてしまいそうだった。
薄暮の中だからだろうか、いつもはちょっとした変化に気づいてくれるはずの兄も今日ばかりは気がつかなかった。そのことに彼は内心で寂しさと安堵の混じったため息をつく。
「そうか、そりゃ良い子だ!」
兄の声に目が覚めたのだろう。母がそこで少し身を起こした。狭い部屋では、薄っぺらい布団の衣擦れの音も大きく聞こえた。
「あ……おっかぁ、ごめんな?うるさかったろ?」
兄が母に近寄る。母はやはり顔を背けながらも、首を横に振った。
「…いいえ……大丈夫よ。それより、いいことでもあった?」
声には笑みが混じっていた。兄が話すと、母も笑顔になる。それが彼にはとても羨ましかった。
兄は大きく胸を張ると、いっそ眩しいくらいの笑顔で言った。
「おう、聞いてくれよ!俺、大通りの薬屋で働かせて貰えることになったんだ!」
「……まあ………!」
母は驚きと喜びの混じった声を上げ、少しだけ子供たちを振り返った。その拍子に、さらりと髪が流れて額から小さくなった鬼の角が現れる。それをそっと直しながらも笑む母に、兄もまた誇らしそうに鼻の下をこすった。
「へっへへ……これから頑張って稼ぐから!おっかぁも初音も養えるくらい!」
彼はなんと応えていいかわからなかった。
そして、こんなにも嬉しそうな母や兄に大切な簪をなくしたとどうして言えるだろうかとひっそりと唇を噛み締める。
嘘がひとつずつ、幼い彼の心を絡め取ろうとしていた。
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