第弐五話

 深い紅染めの部屋着に着替えていた彼は、昼間の派手な羽織とは随分印象が異なって見えた。精悍さや力強さはいくらかなりを潜め、代わりに年相応の落ち着いた雰囲気と少しの色香が漂っている。その姿は、どこか桜並木の下で出会ったあの男性と似たものを感じた。

「夏樹さん?どうされたんですか?」

 とりあえず部屋に招き入れると、彼は首の後ろに手を当てて少し言いにくそうな顔をする。何か込み入った話のようだ。

「あぁ、いや……ちょっと話したいことが────」

 それから何気なく部屋を見回した夏樹はその惨状に思わずのけぞる。

「って、部屋荒れてんな!?何かあったのか?」

 春臣は苦笑を浮かべるしかない。彼は事情を説明しようと腕の中にいる画鬼を指し示す。

「えっと……実は、この画鬼がやんちゃしてしまって」

 すると、まるで間合いを見計らったかのように今の今まで腕の中で眠っていた仔犬が身を起こした。それから二三度目を閉じたり開いたりをして、いきなり目の前の夏樹に飛びかかる。外敵だと判断したのか寝ぼけているのか、脇腹目がけて突っ込んできたそれをかわした夏樹は、逆にその首根っこを掴んで引っぱり上げた。

 なすすべもない仔犬は、さながら餅のようだった。画鬼はしばらく据わった目でぐるぐると唸っていたが、やがて夏樹に害意がないと悟ったらしく急に尻尾を振り始める。敵意というものは、紙面の中に落っことしてきてしまったようだ。

「あぁぁすみません!!!」

「いや、いいぜ。それより───」

 夏樹はその場に胡座をかくと、今まで春臣がそうしていたように腕に抱いた。ぺろぺろと頬を舐めてくるのがくすぐったい様子で、彼は声を上げて笑った。

「はは、なんだなんだ、かわいいなお前!」

 たとえ画鬼とはいえ、ひとりと一匹がじゃれ合う光景は微笑ましい。

「あはは……夏樹さんみたいな画鬼が描けるようになりたいなぁって思って描いてみたんですが……やっぱり難しいですね」

 ちょうど頭に被せるように画鬼をのっけていた夏樹は、苦笑交じりの春臣の言葉に意外そうに目を丸くした。

「オレみてぇな……?」

「はい。すごいなぁって思って……白墨さんも、褒めてらっしゃいましたよ」

 素直に喜ぶかと思ったのだが、夏樹は存外難しい顔をして頭にのせた画鬼をそっと畳の上に下ろした。それから足を組み替えると、彼はどう言ったものかと頭を掻いた後、口を開いた。

「うーん……オレは別に凄かねぇよ。それを言うなら、お前のほうが凄ぇって」

「え……?」

 春臣は夏樹の言わんとするところがわからなくて首を傾げる。すると、今度は夏樹が苦笑を浮かべて組んだ足の上に両手を置いた。

「……あのさ、昼間っからずっと思ってたこと、言っていいか」

 不意にすっとその眼差しが真剣そのものになる。その場に流れる空気が自然と背筋が伸びるようなものに変わる。春臣はその雰囲気につられて居住まいを正す。そして投げられた言葉は、思いもよらないものだった。

「お前、どうしてそんなに他人に優しくできるんだ?」

「へ?」

 思わず間の抜けた声が出てしまい、春臣はとっさに自分の口を手で覆った。夏樹はそれに笑むと、ふとその視線を自らの手元に落とした。部屋を照らす行灯が柔らかい陰影をその頬に刻み、春臣には目の前の青年が普段よりずっと大人びて見えた。

「……お前はあの二葉って坊主を怒らなかっただろ?あんな言葉を投げつけられても、お前は笑ってあいつの手をとった。オレにはそれが、すげぇ不思議なんだ」

 夏樹はそこで身体をぴったり寄せてくる画鬼の頭を撫でた。浮かんでいる笑みは、彼らしくもなくどこか自嘲を含んでいるようにも見えた。

 しばらくの間、部屋には沈黙が落ちる。一瞬、ゆらりと灯りが揺れて部屋がふっと暗くなった。夏樹はその様子をぼんやりと眺め、やがてぽつりと呟いた。

「……オレ、前に言ったよな?他人を信じることからはじめてぇってさ。……でも、ほんとは少し違うんだ」

「え……?」

 春臣はその言葉に驚き目を見張った。その反応を予想していたのだろうか、彼はただ自嘲と苦さの入り交じる笑みを深めるばかりだった。それから深くため息をつくと、夏樹は先を続けた。

「オレは、。こいつは大丈夫、こいつは裏切るかもしれない……ってな。所詮まがいものの信用だ」

「夏樹さん……」

 なんと言葉をかけていいかなんてわからなかった。春臣はまだ、何かとっさに言葉を返せるほどこの矢武夏樹という青年を知らなかった。

 夏樹はそんな春臣を正面から見つめた。その瞳はいつもの彼らしく、とても真っ直ぐだった。

「だけど、お前は違う。お前は、掛け値無しに他人を信じることができる。そうじゃなかったらあそこで二葉の手は取れない」

 青年はじっと少年の顔を覗き込み続けた。

「なぁ、春臣。あのとき二葉の手を取れたのは……何故なんだ?」

 春臣はその問いにしばらく沈黙した。

 何と言えばいいか自分もよくわからなかった。物心ついたときからそうあるものだと思ってやってきたから。けれども、そんな答えでは答えにならないのではないか。どう説明すれば、夏樹が納得する答えを返すことができるだろうか。

 そんなことを考えていた春臣だったが、やがて不意にじんわりと笑みを浮かべた。そしてその口からこぼれ落ちたのは、とても素朴で正直なものだった。

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