第弐一話

 一行を含めた往来の人々は何事かとそちらを見る。すると、ほぼ同時にぱっと人波が割れて、ひとりの子供がすぐ脇を猛烈な速さで駆け抜けていった。その拍子に春臣は体勢を崩してよろける。その背を支えてくれた白墨は、子供が走り去っていくのを見ながら冷静に言った。

「スリだな。随分手癖の悪い子供だ」

「は!?それ先に言って!?白姐さん!」

 白墨の言葉に仰天した夏樹は、ばっと振り返ると羽織の裾を翻して駆け出した。その背中に、白墨は短く問うた。

「追うのか?」

 返答は早かった。彼は肩越しにこちらを振り返ると叫ぶように言った。

「当たり前!悪事が目の前で起きたのを見過ごせるかってんだ!」

 言うや否や、夏樹は懐から絵札帳を抜き出した。それを合図に紅尾が猫らしい俊敏さで風のように走り出す。夏樹は迷うことなく札の中から一枚を引き抜くと、それを口に咥えて刀の柄をひねった。一切無駄のない動きで筆をとり、墨をつけ、取り出した絵札に命を吹き込む。

「─────点睛!!」

 鋭い一声。同時に響く、発砲音のごとき乾いた音。飛び出したのは、一筋の白。それはやがて一匹の犬の姿をとって道を駆ける。

「ほう……?存外なかなか筋がいいな、あの小僧」

 耳の傍で白墨が笑みを含んだ声でそう言ったのを、春臣はどこか遠くで聞いていた。

 夏樹の画鬼はどこまでも自由で力強く、生命力に溢れていた。思わず、状況も忘れて見とれるほどに。

 画鬼は一直線にスリの少年へと向かうと、その背に思いっきり飛びかかった。そのまま少年を背中から押し倒すと、のしかかったまま首筋をぺろぺろと舐め始める。

「うわ…ひやぁぁぁ!!?」

 地面に転がされた少年は言葉にならない叫び声を上げる。それもそうだろう。いきなり背中から襲われた上に、何かがしきりに自分の首やら耳やらを舐めまくっているのだから。

 転んだ拍子にぽーんと少年の懐から放り出された包みは、地面に落ちる瞬間横合いから出された紅尾の手にすっぽりと収まった。彼は息一つ乱さずにいったんそれを自身の懐にしまうと、画鬼の下敷きになっている少年を一瞥する。年の頃は十を少し越えたあたりか。気の強そうな顔立ちである。

「ッたく……すばしっこい小僧っ子だぜ。逃げ足だけはいっちょ前だなァ」

「っ……!!」

 少年は顔を歪めて逃げだそうと抵抗を試みるも、画鬼の重みで手足しか動かせなかった。そこで遠巻きにしている人々の間を割って、夏樹を先頭に他の面々も追いついてくる。夏樹は嬉しそうに尻尾を振ってくる画鬼の頭をひと撫ですると、少年の脇にかがみ込んでぎろりと彼を睨んだ。

「よう、坊主。こんな白昼堂々スリをするなんざぁ大した度胸だなぁ?」

 少年はキッと夏樹を睨みつけた。負けん気の強い性格なのか、一歩も引く気配がない。

「……っ、てめぇにゃ関係ねぇだろ!!その包みを返せ!!」

 すると夏樹はすっと表情を消した。紅尾その隣では黄色い瞳をつぅっと細める。粋で陽気な兄貴肌の面しか見てこなかった春臣は、彼らの表情に背筋がぞくりとするのを感じた。

「この包みはてめえのモンじゃねえだろ。そういうことは、ちゃんと金払ってから言いやがれ」

「払う金なんざ一銭もねぇが、その薬にゃ用があるんだよ!!」

 組み伏せられているとはいえ、少年も掴みかからん勢いだ。だがいかんせん分が悪い。取り巻きも徐々にスリの少年へと哀れみの視線を送り始めていたこともあり、春臣はそこで我に返って慌てて両者の間に割って入った。隣では白墨が正気を問うような目で見ていたが、見て見ぬ振りができないのが春臣という少年だった。

「ま、まあまあ、お二人とも……少し落ち着いてください」

 そうしておそるおそる渦中の面々に声をかけると、夏樹がガラの悪い顔でこちらを見た。

「春臣……いくらなんでもここでこいつを庇うのは筋が違ぇぞ?こいつは悪ぃことをしたんだからな」

「そ、そういうわけではなくて……」

 その凄味のある声にたじろぎつつも、春臣は未だ伏したままの少年の前に片膝をつくとじっとその顔を覗き込んだ。手負いの獣のように攻撃的で、濃い不信感が陰を落とす瞳だった。

「えっと……まずは薬屋に行って謝ろう?悪いことをしたのはわかってるんでしょう?」

 その瞬間、少年の顔が憤怒に歪んだ。

「うるせぇ、何不自由なく暮らしてきたような顔しやがって……!!お前みたいのが一番大っ嫌ぇだ!!」

 血を吐くような叫びに、春臣はひるむ。真っ直ぐで衒いも何もないからこそ、その叫びは胸に直接刺さった気がした。対照的に夏樹と紅尾はまとう雰囲気をいっとう寒々しいものにする。白墨は、ただ見定めるように成り行きを静観しているだけだった。

「このガキ……」

「いったん沈めるか?」

 さすがに冗談に聞こえない。少年も殺気立った二人には怖くなったようで、今さっきまでの威勢はあえなく削がれた。その隙を狙って、春臣はもう一度彼に声をかけた。

「……ねぇ、君」

「……んだよ」

 幾分か落ち着いた調子の彼に内心でほっとして、春臣は彼に柔らかく笑った。

「僕もついていってあげるから、ね?謝りに行こうよ。このままじゃあ君、お薬買えなくなっちゃうよ?」

 何気なく言ったつもりだったのだが、少年は想像以上に春臣の言葉に顔を強張らせた。何かを強く怖がっているような顔に首を傾げると、彼は慌てて首を横に振る。それから、たっぷりと間を置いたあと少年は視線を落としたまま小さく頷いた。

「…………わ、かった……」

 春臣は無言で夏樹を見る。彼はしばらくむすっとして黙りこんでいたが、やがて根負けしたように頭を抱えて深い深いため息をついた。彼は自慢げにこちらを見上げる画鬼の頭を撫でると、その瞳を朱筆で塗りつぶした。それから、重石がぱっと霧散して晴れて自由の身となった少年に向き直る。

「……おい小僧」

「んだよ………ッッ!!?」

 夏樹は少年が何かを言う前にその頭に思いきりのいい拳骨を二発連続で落とした。その衝撃たるや周りで見ていた者たちが一様にさっと視線を逸らすほどで、無論少年はしばらく頭を抱えて悶絶しているしかなかった。

「今回は拳固二発で勘弁してやる」

「ってぇな……!!」

 ようやく話せるようになった少年が食ってかかると、青年絵師は深く腕を組んで鼻で笑った。

「たりめーだろ。薬屋の分と、……それから

暴言吐かれても怒らなかったオレの仲間の分だ。」

 春臣が目を見張って夏樹を見ると、彼はひらひらと手を振った。

「おら、行くんだろ?さっさと行って怒られてこい」

「……夏樹さん、ありがとうございます。ちょっと行ってきます」

 春臣は少年を立たせると、紅尾から包みを受け取って歩き出した。その後ろ姿を眺め、白墨も紅尾も揃って呆れた表情を浮かべる。

「やれやれ、お人好しめ……」

「今回ばかりは姐御に同意だわ……ある意味、すげェ大物になるかもしれんぜ」

 そう言って二人も春臣たちの後を追って歩いていく。

「……………」

 ただひとり、夏樹だけはその場にしばし立ち尽くしたままため息をついた。そして、乱暴に頭を掻いた後誰にも聞こえないように舌打ちをして、彼もまた仲間たちの元へと歩き出すのだった。

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