第弐〇話

〈六角座〉から人力車を捕まえて、街を北へ向かうこと半刻足らず。たどりついたのは、街のど真ん中に大きな花街を抱えた胡蝶神、柳町だった。言わずと知れた、新都でもその名を知らぬ者はいないと言われるほどの規模を誇る花柳街である。大きな通りが一本貫くその両脇には店が軒を連ね、その突き当たりには見上げるほどの黒門がそびえており、ひょいと路地を覗けば細々とした路地の多さに驚く。無論春臣は来るのが初めてで縁のない場所でもあるから、物珍しくてあちこちを見回してしまった。

「……やっぱり、雰囲気が違いますね」

 行き交う人々は何ら変わりがないように見えるが、よくよく見るとその中の幾人かは仕立ての良い和服をまとっている。おそらくは上流階級の人々 だろう。その一方で、時折路地の奥かろ出てくる人々は褪せた着物を着ている者も少なくなかった。両者が平然と歩いている光景は、どこか違和感を覚える。

 春臣の言葉に軽く頷きながら、隣に立った夏樹は彼を見下ろした。

「ここは胡蝶神も柳町。さすがに名前くれぇはきいたことあるだろ?」

「えっと……はい」

 春臣が頷くと、夏樹は通りの奥の黒門を指差した。

「あそこに黒門が見えるだろ?あの向こう側は夜の女たちが住む場所だ」

「……なるほど、それでこの軒並みか」

 夏樹の説明にむしろ納得した様子を見せたのは白墨だった。彼女は鋭い視線で周囲を一瞥した。ちょうど先ほどから白墨を胡乱な目で見ていた通りがかりの男が、その視線を受けて何もなかったように立ち去っていった。……ああいう手合いがいるからこういう場所は嫌いなのだ。普通を装っていても欲望が見え隠れする者ばかりである。白墨はふん、とつまらないものを見たと言わんばかりに顔を背けた。

「櫛に簪、白粉に紅……あちらは呉服か。いずれにせよ、そちらの者たちの御用達のようだが」

「ハハ、さすが女は目の付け所が違ェな」

 揶揄するように言った紅尾をひと睨みし、白墨はつんとそっぽを向いた。

「ふん……嫌でもわかる。古くより、その手の商売はどんな世でもなくならないと相場が決まっているからな」

 彼女は吐き捨てるように呟くと、場の雰囲気を仕切り直すように話題を変えた。

「……それはそうと、〈たまかずら〉というのはそこでいいのか?」

 白墨が指し示した先には、丸紋に玉の字が書かれた暖簾のさがる店があった。その大きさたるや元商家だったという〈六角座〉の建物に勝るとも劣らない。付き人だろうか、少し離れたところには何人かの身なりのいい男性が番傘を杖代わりに煙管をふかしていた。

「大店ですねぇ……」

「さすが、伊達に花柳街相手に商売してねぇな」

 夏樹はやや苦笑気味に言うと、ちょうど客の見送りで出てきた手代をつかまえた。

「よう、ちょっといいか?」

 手代は突然声をかけてきた一行に少し驚いた様子だったが、白墨と紅尾の頬に紋があるのを見てこちらの生業を察したらしい。すぐに笑顔を貼り付けると爽やかに応対した。

「いらっしゃい、どんなもんをお探しで?」

「あーいや……買い物に来たわけじゃなくて悪ぃんだがよ、ちょいと聞きてぇことがあるんだ」

「へぇ?なんでごぜぇましょう?」

「この簪を扱っていらっしゃいますか?」

 春臣が簪を見せると手代はすぐに、あぁ、と声を上げた。

「これならありますわ」

 手代は慣れた様子で暖簾を除けて一同を店の中に入れてくれた。それから、入口の目立たないところに置かれた簪売り場の前に案内する。

「ほら、そこにありますよ」

 手で指し示された先に目を向けると、色や形は様々でもたしかに持っている簪と似ているものが置かれている一角があった。近寄ってみてみると、たしかに件の簪と同じ型のものも置いてあった。

「鹿子木の工房のひとつに良い簪をつくるところがありましてねぇ。お客さんの評判も良くって、ずっとうちで売らしてもらっとるんですわ」

 自慢げに語る彼に適当な相槌を打ち、夏樹は重ねてこの人の良さそうな手代に尋ねた。

「こいつの買い手が誰かとか、そういうのはわかんねぇか?」

 すると、手代は目を丸くして叫んだ。

「無茶を仰いますな、旦那!」

 彼は何をバカなことを、と言わんばかりに顔の前で手を振ると、春臣が手にしている簪に視線を移して続けた。

「そいつぁ花柳の女なら誰しも一本は持っているような品でっせ?いちいち憶えてられませんて」

 手代の言葉に一同は顔を見合わせる。どうやら今度こそ手詰まりらしい。

 ひとまず、春臣は簪を懐にしまうと親切な手代に頭を下げた。

「色々教えてくださってありがとうございます。すみません、突然お引き留めしてしまって」

「いやいや、気にせんでください」

 彼はからからと笑って、結局何も買っていない無粋な客だというのに店の外まで見送ってくれたのだった。



「……ほぼほぼ無駄足になっちまったな」

 夏樹が堪らずそう呟いたのは、〈たまかずら〉が見えなくなったところだった。彼の言葉に、春臣は着物の上からそっと簪を押さえて黙りこみ、紅尾は肩をすくめた。

「さすがに相手が花柳の女となると、そりゃ全部調べようったってェ偉ぇ時間かかっちまうしなァ。それこそ春が終わっちまうぜ」

「……あまり洒落になっていないぞ」

 白墨がため息交じりにそうツッコんだときだった。

「泥棒だ!!誰か捕まえてくれ!!」

 そんな怒声が飛んできたのは。

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