第捌話

 再び大池の畔に戻ってきた一行は、堤の上まであがって一息をついた。静かで幻想的な桜花宮にいた分、さほど時間が経っていないというのに胡蝶神の雑多な喧噪がどこか懐かしささえ感じられる。見慣れた色の桜に、春臣は内心安堵した。

「ひとまず帰ってきたが……とりあえず池を一周してみるか」

 秋彦が言うのに、皆が頷く。そうして歩き出そうとした時だった。

「……おい」

 今までほとんど喋らなかった白墨が、初めて自分から声を上げた。振り返れば、彼女はある一点を見上げていた。

「早速だが……あったようだぞ」

 一同がその視線の先をたどると、桜雲の中に一部枝が折られた痕があった。枝が数本、半端にぶら下がっているのが痛々しい。

 照鏡姫がふわりとその傍へ舞い上がる。そして、その小さな手で痕に触れた。

「ふぅむ……これか」

 彼女はひとつ呟くと、ぱん、と柏手を打った。すると、光の粒がその傷痕に閃く。まるでかさぶたのように手折られた痕を覆ったそれらは、ほどなくして周囲の背景に溶け込んで消えた。

「……今のは?」

 春臣が満足そうに降りてきた彼女に尋ねると、照鏡姫はふふ、と悪戯っぽく笑って答えた。

「まぁちょっとした結界術じゃよ。外界と触れて万一腐食してしまっては後が大変じゃからの。桜は殊の外繊細な木ゆえ」

 二人のやりとりを聞きながら、白墨は再び先ほどの部分を見上げた。何かを見極めるかのように、その艶のある黒い瞳がわずかに細まる。やがて、彼女はぼそりと言った。

「……あの位置の枝を折ったとなると、子供には違いあるまい。大人では足場にする枝自体が保たん。もっと派手に折れているはずだ」

 かなり具体的な分析に、春臣はもちろん秋彦も驚く。初見でそこまでわかる者もそうはいるまい。近場で見てきた照鏡姫だけは、同意するように頷いた。

「よくわかりますね……」

 思わず感嘆の声を漏らした春臣に、画龍はつまらなそうに肩をすくめた。その拍子に、緩くまとめた白髪が一房こぼれ落ちる。

「観察して描くのは絵の基本……これはその延長みたいなものだ」

 遠回しに観察眼がないと言われているようで、春臣はうっと言葉に詰まる。白墨は気にかける様子もなく、ともあれ、と話題を変えた。

「まぁ、子供と知れただけ収穫だろう。それが人か否かは別としてな」

 その言葉には、秋彦と照鏡姫も深く頷く。

「あぁ、これ以上は俺たちだけではどうにもならん。いったん志木さんたちの判断を仰ごう」

「ま、それが賢明じゃろうな」

 話がまとまったところで、春臣の腹の虫が盛大に鳴いた。慌てて腹をおさえるものの一瞬遅く、他の面々が一斉にこちらを向く。

 春臣は否が応でも自分の顔が真っ赤になるのがわかった。桜花宮ではその気もなかったのに、帰ってきた瞬間鳴くのだからまったくもってタチの悪い腹の虫である。

「……すみません………」

 申し訳なさと恥ずかしさとで呟くように言った春臣に、秋彦はふっと表情を緩めた。

「構わん。もういい時間だからな」

 彼は眼鏡を押し上げて、それから踵を返した。数歩いったところで肩越しにこちらを振り返る。

「先に飯にしよう。ついてくるといい」

「いいんですか?」

 目を丸くした春臣に、秋彦はひらりと手を振った。

「奢るつもりはないぞ」

「相変わらず守銭奴ケチじゃのう……」

「うるさい」

 青年は、ぼそりと言った式にはぶっきらぼうにそう返したのだった。

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