第玖話

 胡蝶神の街中を歩くこと一刻ほど。往来は変わらず人は多かったが、大池に向かうときに比べれば幾分か歩きやすくなっていた。

 少し上を見上げれば、道を覆うように弓なりに反った桜並木。その隙間からは空の青が覗いている。通るよー、と車夫のよく通るかけ声が聞こえ、前を向く。周囲の人波がさっと動く。二人乗りの人力車が目の前を通り過ぎ、辻を折れていった。一行はそれを何とはなしに見送ったあと、ちらほらと花弁が舞い散る道を横切った。

 昼間を少し過ぎた時分だからだろうか、道端の屋台飯屋には人はさほど並んでいなかった。秋彦は様々並ぶ屋台のひとつに近づくと、大きな声で歌を歌いながら店番をしている男性に声をかけた。

「相変わらず、下手くそな歌だな」

 お決まりの挨拶なのだろう。男性は特に気分を損ねた様子もなく、からっとした笑顔を浮かべた。ねじり鉢巻きのよく似合う男性だと、春臣は内心思った。

「おう、秋兄に姫ちゃん。何でぇ、今日は揃って逢い引きか?」

 二人の反応は速かった。

「莫迦を言うな」

「ぬかせ、馬鹿者」

 同時に返ってきた言葉に、言った本人はたじたじとなってしまう。

「へぇへぇ……ちっとからかってみただけでぇ、そんなムキにならねぇでくれや」

 鉢巻きの位置をずらしつつ苦笑を浮かべた彼は、春臣と白墨に気づいて目を丸くする。

「お、そちらさんは?」

「うちの新入りだ」

 簡潔明瞭に紹介した秋彦に、男性はにかっと笑った。この笑顔の感じやころころと表情の変わるところは、どことなく夏樹に似ていると思った。

「おー、そうか!俺ぁ飯屋の清六ってんだ。ひとつ、よろしく頼むぜ!」

 春臣が会釈するのを待って、秋彦は男性──清六に向き直る。

「それより、何か食わせろ。握り飯くらい残っているだろう?」

「おお、あるぜ。今日は筍飯だ。蕪の味噌汁も残ってら」

 なんとも春らしい取り合わせである。秋彦はにやりと笑うと、懐から銭を出して屋台の端に置いた。

「では、どちらもいただこうか」

「毎度ありぃ!」

「坊ちゃんも同じのでいいかい?」

「あ、はい!ありがとうございます!」

 秋彦に倣って銭を屋台端に置くと、清六はますます破顔一笑した。それから、健康的に焼けたたくましい腕をぱんぱん、と叩いて不敵に笑う。

「腕によりをかけてつくってやるよ!美味くてぶったまげっちまうから覚悟しとけな!」

 つられて笑った後、春臣たちはすぐ傍に設けられていた縁台に腰掛けた。

「やれやれ、ようやく一息つけるのう。ずっと歩くのも疲れるわ」

 当然のごとく春臣と秋彦に続いて縁台に腰掛けた照鏡姫が言うのを、当の主は呆れ顔で見る。

「……お前は歩いていないだろうが」

「何を言うか。飛ぶのも割合体力を使うのじゃぞ」

 平然と言ってのけた彼女に、春臣はふと頭をよぎった疑問を何の気なしに尋ねた。

「そういえば、照鏡姫さんは、ご飯は食べないんですか?」

「ふふん、“さん”は要らぬぞ、青陽よ」

 よくぞ聞いてくれた、という調子で照鏡姫は身を乗り出す。春臣は内心で初めて号を呼ばれたことに驚きつつ、その顔を見た。

「基本我は食事要らずじゃが……美味いものは食う主義じゃ。特に甘味は。じっくり甘く煮た豆は良いぞ!」

 熱が入った様子で語る照鏡姫は見た目通りの幼い少女に見えて、春臣は声を上げて笑った。

「あはは、なんからしいですね」

 彼はそのまま縁台の傍らに立つ白墨を見上げる。彼女は腕を組んだまま、道行く人々を黙って眺めていた。

「白墨さんはどうなんですか?」

 白墨はその質問に面倒そうな表情を浮かべたが、結局はぶっきらぼうに答えてくれた。

「……特になくてもやっていける。食いたいと思うものもない」

「何じゃ、つまらんのう。人生損しておるぞ、筆神」

「……ふん」

 白墨はまたふいっとそっぽを向いてしまった。やはりなかなか、気難しい。

 春臣が苦笑を滲ませていると、清六が威勢のいい声と共に二人分の食事を持ってきてくれた。笹の葉の皿には少し硬めに握られた筍飯がふたつ、汁椀には湯気がほのかに上る蕪の味噌汁が入っている。

「ほれ、姫ちゃんには豆の甘煮だ」

「おお、さすがお主は気が利くのう!」

 準備していたのだろう好物を手渡されて、照鏡姫の機嫌が目に見えて良くなる。そんな様子を横目に見ながら、いただきます、と手を合わせて、春臣は早速筍飯に手をつけた。

「!」

 素朴だが、優しい味わいだ。下味のしっかりついている筍がいい食感を生み出しており、蕪の味噌汁も絶妙な加減で味つけされている。

 春臣の反応が面白かったのか、秋彦も付け合わせで出してくれた漬け物を食べながらにやっと笑う。

「悪くはないだろう?」

「めちゃくちゃおいしいですよ!」

 夢中になって食べる春臣に、清六が飯の入ったおひつの世話をしながら大笑する。

「ははは、良い食いっぷりだ!たっぷり食ってけよ、坊ちゃん!」

「はい!」

 春臣は満面の笑みで返事をすると、食べることに集中した。実のところ、その様子を見ていた秋彦と照鏡姫が食べる速さは夏樹並みかもしれないとそろって評していたのだが、その会話も少年の耳には届いていなかった。

 ほどなくして昼飯を平らげたところで、通りの奥の方がにわかに騒がしくなる。同時にがらがらと地面をうるさく転がる車輪の音が聞こえ、道の真ん中を歩いていた人々がめいめいこちら側に避けてきた。

「何でぇ、何の騒ぎだい?」

 清六が手近な人に尋ねる。すると、話しかけられた中年の男性は、いささかうんざりそうな表情で答えた。

「華族さまさぁ。まったく、貴い身分の方々ってぇのは常識を知らねぇなぁ。こんなところを馬車で通ったら危ねぇのによ」

 彼がそう言い終えるのと、件の馬車がけたたましく過ぎ去って行ったのはほぼ同時だった。車体の脇になにがしかの紋が描かれていたところを見ると由緒ある家柄なのだろうが、生憎細部まで見ることはできなかった。

「随分立派な馬車でしたね、秋彦さ────」

 春臣は言いながら秋彦を見て、思わず言葉を失ってしまった。それを不思議に思ったらしい白墨もちらりとそちらを見やり、意外そうな顔をする。

「……ほう、あれはお前の知り合いか」

 そこには、きつく目を細めて険しい表情を浮かべる秋彦がいた。射殺せそうな瞳というのは、恐らくこのような瞳を言うのだろうと思わずにはいられなかった。彼はしばらく馬車が走り去っていった方向を眺めていたが、やがてため息をつくと白墨の言葉に応えた。

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