第陸話

 驚いて振り返れば、いつからそこにいたのか一人の女性が立っていた。微かな煌めきを纏う春色の十二単は華やかで、淡い色合いが優しげな顔立ちによく似合っている。片方の肩には、目白が一羽止まっていた。

 彼女はぱたぱたと飛んできた鶯の桜守をもう一方の肩に止めると、その指先で小さな頭を撫でた。

「ご苦労でした、藤壺」

 そして、春臣たちに目を向けると手にしていた扇で口元を隠しながら上品に笑った。

「良い日和ですね、各々方。わざわざお越しいただいてありがとうございます」

 見るからに高貴の出とわかるを相手にしたことがない春臣は、ただその場でおろおろしているしかできなかった。それを見て取った秋彦は春臣の前に一歩踏み出すとその場に膝をついて頭を垂れる。自分に倣えということらしいと察した春臣は慌てて彼のやったとおりに膝をついて、それからちらりと斜め前の秋彦を見やった。

(きれいな立ち居振る舞いだなぁ……)

 育ちが良いのだろうか。加えて、随分と慣れている印象を受ける。そんなことを思っていると、目の前に立つ女性がまたひとつ笑みをこぼした。

「ふふ、楽になさってくださいな」

 彼女の言葉に二人は立ち上がって顔を上げた。間近で見るその笑顔はやはりとても上品で、そして陽だまりのように温かなものだった。

「花散里の君……お身体の具合はいかがですか?」

 そう問いかけた秋彦に、花散里の君と呼ばれた彼女は困ったように眉を下げて嘆息した。

「皆が騒ぎすぎなのですよ。ほんの少しふらついただけでこれなのですから……まったく、おかげで外にも出られません」

 すると、間髪入れず肩に乗った目白のほうが両翼をばたつかせて反論する。

「何を仰います!御身はこの胡蝶神の要なのですぞ!」

「そうです!それに、何かあっては私どものみならずゆかりのある皆々も悲しみます!」

 負けじと鶯の桜守───藤壺も言う。花散里は苦笑を浮かべて、それからこれ見よがしにため息をついた。

「桐壺も藤壺も、もうずっとこんな調子なのです。さすがのわたくしも疲れました」

「ぴーちくぱーちく言うのが我らの役目ですゆえ!」

「口喧しく言う鳥の一羽や二羽おりませんと、御君はご無理をなされますゆえ!」

「わかりました、わかりましたから、そう耳元で騒がないでくださいな」

 二羽が入れ替わり立ち替わり喋るのを少し困り顔で相手する花散里。端から見ていてもそのやりとりがとても和やかでかわいらしかったので、春臣は思わず笑ってしまった。

 すると、彼女ははたと気がついたようにこちらに目を向けてきた。

「おや……そちらは見ない顔ですね」

「〈六角座〉の新入りです。昨日来たばかりで……ご挨拶も兼ねて、こちらに連れてきた次第なのです」

 秋彦が手短に経緯を話してくれた。彼女は納得したように幾度か頷くと、数歩歩み寄ってくる。真正面から自分を捉える薄紅の瞳はどこまでも美しく、春臣は否が応でも緊張してしまった。

「は、初めまして……結城春臣と申します。号は青陽で、こちらは式の白墨さんです。縁あって〈六角座〉に入ることになりました。よろしくお願いいたします!」

 まくし立てるように話して深々と一礼すると、花散里はいささか驚いた様子でじっと春臣の顔を覗き込んだ。

「結城……というと、もしや玲陽殿の?」

 その名がこの神の口から出てきたことに春臣は驚きつつも、頷いた。

「へっ?あ、はい、僕は玲陽先生の養子なんですけど……」

 おずおずと応えると、彼女はぱっと満面の笑みを浮かべた。同時に、それまで風がなかった桜花宮を温かなそよ風が吹いた。この幻想的な空間の環境は、彼女の気分で左右されるのかもしれない。ともあれ、花散里は玲陽の名にとても喜んでいる様子だった。

「まぁ、そうだったのですね!子を養っているとは聞き及んでおりましたが、よもやこうして会えるとは!」

 春臣は目を丸くしてその言葉を聞いた。自分のことを聞いているということは、だいぶ親しい間柄なのだろうか。

「えっと……もしかして、先生とはお知り合い……ですか?」

「ええ。……まあ知り合いといっても、ちょっとしたものですが。以前にこの桐壺が助けていただいたご恩があるのです」

 春の女神は白い指先で目白の眷属───桐壺を撫でながら言った。それからふわりと笑って扇を閉じた。さわさわと吹いていたそよ風はただそれだけの動作でふっと凪いで、異空間にはまた静寂が訪れる。

「そういえば、まだ名乗っておりませんでしたね。わたくしはこの大池の主。花散里や春御前と呼ばれている者です。好きに呼んでくださいな、春の名を持つ人の子」

 春臣は、ただ頷くことしかできなかった。

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