第参話

 玲陽に半ば強制的に腕をひかれて歩くこと四半刻ほど。だいぶ人波にも慣れてきた辺りで、春臣はふと渡し場から幾筋も突き出た桟橋のひとつから手を振っている人物がいることに気が付いた。

「ん?あれって……」

「おお、志木くんと恵くんじゃな」

「先生、よく見えますね」

「はっはっは、老眼を馬鹿にするでないぞ?近くはよう見えんが、遠くならばまだまだ現役じゃ」

 そんな軽口を叩き合いながら、春臣たちは桟橋へ降りた。石造りの階段は思うよりも滑って、一度危うく百鬼集の入った風呂敷包みごと放り出しかけた。包みの中で白墨が何事か文句を言っていたようにも聞こえたが、あえて耳を貸さないことにした。

 それはともかく、何とか志木と恵に合流することが出来た春臣は、改めて二人を見上げた。

「おはようございます、志木さん、恵さん。それから……わざわざありがとうございます」

 一礼した春臣に志木はからからと笑った。

「はは、せっかくの門出なんだ。これくらいはさせてくれたまえよ、春臣。……本当は恵が獣姿になってくれたら話は早かったんだけどね。ひとっ跳びで行けたというのに」

 相方の軽い言葉に、恵は苦い顔で眼鏡を押し上げた。

「白昼堂々、あの姿を晒してみろ。今日の夕刊にすっぱ抜かれるのだけは勘弁だ」

「あーあ、はいはい。仕方ないなあ……君がそんなだから、秋彦もあんな堅物になっちゃったんだよ……」

「あいつのあれは天性だ。誓って俺のせいじゃない」

「どうだか……まあ、それはいいとして」

 適当なところで会話を切り上げると、志木は春臣を見下ろした。穏やかだが、同時に背筋の伸びる視線だった。

「春臣。準備はいいかい?」

「……はい」

「いい返事だ」

 少し緊張のみられる表情に笑みを深めながら、志木は大きくひとつ頷いた。それから玲陽と彩玲に向き直り、被っていた帽子をとって一礼する。

「では……玲陽さん、彩玲。春臣のことはお任せください」

 玲陽は志木の言葉に深く頷いて言った。

「……うむ。しっかり見てやっておくれ、志木くん」

「承知しました」

 そのやり取りを横目に、春臣は自分の横にいる彩玲を見やった。彼女は光の粒から人型に戻ると、ふわりとその頬に触れた。

「……坊ちゃま、くれぐれもお体にだけはお気をつけてくださいまし」

「うん……ありがとう、彩玲」

 春臣は自分の頬に触れる彩玲の手に触れ、一度ぎゅっとその白く華奢な手を感謝の気持ちをもって握った。今まで自分を支えてきてくれた、姉がわりの優しい妖の手を。

「では、行くか」

 恵の言葉に、春臣は彩玲の手を離して頷いた。そうして玲陽たちに深く頭を下げて、志木の背を追って歩き出す。

 老師が声をかけてきたのは、そのときだった。

「………春臣」

 呼びかけに振り返れば、真っすぐに自分を見つめる視線があった。玲陽はにっと笑うと、いつものように頭を数度撫でて続けた。

「今生の別れではあるまいし、渡し船一本で帰って来られる距離じゃ。折々には元気な顔を見せておくれ。それから―――」

 ふと、そこで玲陽は表情を引き締めた。春臣は自然と背を伸ばして、養父に身体ごと向き直っていた。それを待って、玲陽は先を続けた。

「何を賭けて己が筆をとるのか……その問いを、忘れてはならぬぞ」

 それは、門出を迎える弟子に送る師のはなむけであり、何より含蓄がんちくのある言葉だった。春臣はその言葉を深く胸に刻むように息を吸い込むと、大きくひとつ返事をした。

「……はい!」

 そうして、渡し舟に乗り込む。船頭がゆっくりと舟をこぎ出す。桟橋から舟が離れる。春臣が振り返れば、桟橋には少しずつ小さくなっていく家族の姿があった。

 春臣は、二人に目一杯手を振って――

「いってきます、先生、彩玲!!」

 ほとんど叫ぶように、そう言ったのだった。


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