第弐話
新都はおおよそ十六ほどの区と、それらを取り囲むように位置する五つの郡に分かれている。また街の真ん中よりやや東寄りには
〈結城屋〉があるのは、その東岸地区――時代の開発から取り残されつつあるものの、古き良き街並みが残る
とはいえ、庶民にとっての足は時代が劇的に変化して久しい今でも専ら駄賃の高い陸上交通ではなく、昔から馴染みがあって、安く、大量の荷を載せても問題がない渡し舟である。東岸地区最大である翠澄町の渡し場は、今日も今日とてたくさんの人でにぎわっていた。
そして、春臣はその人波のど真ん中で大苦戦を強いられていた。
「わわっ……!すみません!!」
荷物を頭の上に掲げるようにして次から次へと来る人々を何とかかわそうとする。しかし、目の前の人を避けたと思った拍子に視界の隅から出てきた人にぶつかってしまい、謝る。人慣れしていない春臣は先ほどからそれをずっと繰り返していた。
「まったく……こんな調子で本当にやっていけるのか?」
不意に、頭上から声が聞こえてきた。それと同時に、目の前にひらりと白い人影が舞い降りる。やれやれと首を振りながら現れた彼女――白墨に、春臣はむっと眉をひそめた。
「そ、そんなこと言われても困りますよ。〈結城屋〉は翠澄町でも郊外よりでしたし、あまりこちらのほうには来たことがなかったんですから」
「お前の育った環境にケチをつけるようなことは言うつもりはなかったのだが……正直、これでは絵師稼業どころか普通の生活すら危ういな。先が思いやられる」
「うっ…………」
正論すぎる正論に、春臣は言葉の一つも出なくなる。白墨はひとつため息をつくと、ちらりと肩越しに自らの背後を見やった。少し先を歩いていた玲陽が、春臣の姿がないのに気が付いて人波をかき分けて戻ってくるところだった。彩玲は光の粒になって老師の周りをふわりふわりと飛んでいた。
「少し甘やかしすぎたのではないか?翁よ」
その言葉に、戻ってきた玲陽は苦笑を浮かべるしかない。
「それを言われると、育ての親としては何も言えませんなぁ」
「せ、先生まで……」
肩を落とした春臣に、彼は大笑してその肩を叩いた。
「西岸の人の入り乱れようはこれの比ではないぞ?春臣。ほれ、立ち止まっていては皆に迷惑じゃ。とにかく歩くのじゃよ」
「わわっ、せ、先生!腕引っ張らないでください!」
ぐいぐいと腕を引っ張って人波に分け入る玲陽の足取りはいつも以上に
その危なっかしい様子を眺めながら白墨は今一度ため息をついた。それから、春臣のすぐ後を遅れずについて歩きつつその背に声をかける。
「はあ……とりあえず、私は書の中に戻る。くれぐれも落としてくれるなよ」
「高みの見物!?」
肩越しに振り返った春臣に、手厳しい画龍はふん、と鼻で笑って一蹴した。
「当たり前だ。この程度で手を貸してやってどうする」
そうして本当に百鬼集の表紙に戻ってしまった彼女に盛大なため息を漏らした春臣を、彩玲だけが気遣わしげに見ていた。彼女は蛍よりは強い光を放ちながら春臣の脇を舞って言った。
「坊ちゃま……お荷物をお持ちいたしましょうか?私ならば飛んで行けますし……」
その提案はとても魅力的だ。周囲にも荷物にも気を遣わなければいけないのは少々骨が折れると思っていたところだ。ぐらりと気持ちが傾げそうになった春臣だったが、そこでいやいやと我に返った。
(こんな初手から彩玲の優しさに甘えてどうするんだ、僕……!)
白墨と契約を結んでから七日。春臣を取り囲む環境は大きく変化しようとしていた。
ひとまず、春臣は志木の下に厄介になることになった。志木は絵師として名を馳せる傍ら、自らが長となって絵師の寄合――俗に“座”と呼ばれるそれを束ねている。そこにとりあえずは在籍することにし、他に自分に合う座が見つかればそちらに移籍をするもよし、という形をとることにしたのだ。
ここ最近はその手続きをしたり、引っ越しのために部屋を整理したりと忙しない日々であったが、その間春臣は密かにひとつの決め事をしていた。すなわち、極力玲陽と彩玲の手を借りないということである。何かと頼りそうになってしまうのだが、これから先傍に二人はいない。その変化に慣れる意味でも、小さなことではあるが独力でできることは自分で何とかしようというのが春臣のささやかな誓いであった。ちなみに、白墨は最初から頭数に入れていない。
「う……ごめんね、気持ちだけ受け取っておくよ、彩玲。いつまでも君に頼りっきりではいられないんだし」
たとえ小さな自己満足であっても、一度自分で決めたことは守り通したい。そう思いながら断りを入れると、彩玲は優しげに明滅しながらくすっと笑った。
「ふふ……そうでしたわね。では、せめて坊ちゃまがお荷物をぶちまけないようにだけ見守らせていただきますわ」
「うっ……信用ないなあ……」
「坊ちゃまはそそっかしいですから」
楽しげに言う彩玲に、春臣は返す言葉がなかった。
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