第肆話

「……さて、春臣」

 志木が口を開いたのは、舟が川の中ほどを過ぎたあたりだった。それまでは多少なりとも別れの余韻に浸っていた春臣も、その呼びかけに我に返って志木を見た。彼は少し苦笑をにじませると、持っていた杖でこん、と舟底をひとつ突いた。

「そんなに緊張しなくても大丈夫さ。もう少し肩の力を抜いて、楽に構えてごらん」

「え、えっと……ら、楽に、ですか……」

「はい、深呼吸深呼吸」

 春臣は言われるがまま、深く息を吸って吐いてを繰り返してみる。志木は至って上機嫌だったが、恵はその様子を半信半疑で眺めていた。

「……それをやったら余計に緊張すると聞いたことがあるが?」

「嫌だなあ、かわいい後輩のことを気遣ってのことなのに。余計なことは言わなくていいよ、恵」

 小声で応じた相方に、恵は改めて思った。

「……お前は本当に腹が黒いな……」

「ほんの少し、人より性格がひねくれているだけだよ」

「そこは認めるのか」

「うん、隠していてもしょうがないし」

 あっけからんと言い切った志木の顔を見て、恵はまたため息をついた。どうやら、純粋な春臣がこの腹黒の男の悪影響を受けないようにするためには自分が骨を折るしかないらしい。

 心中穏やかではない恵を尻目に、志木は幾分か落ち着いた様子の春臣に改めて向き直った。

「少しばかり、西岸地区と僕の座について説明をさせてくれないかい?本当はいちいちその場所に連れて行ったほうが印象に残って良いのだろうけれど、そんな暇もないし……それに、口頭とはいえこれから仕事場になる場所についての知識を蓄えておくのは悪いことではないからね」

 春臣は志木の言葉に大きくうなずいた。何せ新都暮らしが長いとはいえ、西岸地区にはほとんど馴染みがない。こうして教えてくれる人がいるのはありがたかった。

「はい、お願いします!」

 志木はその返事に笑みを深めると、杖を握りなおした。

「さて……まずは僕の座について説明をしようかな。そのあと、西岸地区の説明は恵にしてもらおう」

 その言葉に、恵は心底嫌そうな顔をした。

「そう来ると思ったが……たまには全部自分で説明したらどうだ」

「君のほうが説明上手だ」

「はあ………」

 恵は盛大なため息こそついたが、特に異論をはさむこともなかった。志木はそれに満足すると、口を開いた。

「僕の絵師座は、名を〈六角座ろっかくざ〉と言ってね。西岸地区の北東部――胡蝶神こちょうじんというところに居を構えているのだが。少数精鋭、規模からいってそれほど大きい座ではないんだ」

 座を構成する絵師は全部で六人。そのうちの半数は若手絵師であるという。あまり広域的な活動ができない分、胡蝶神一帯とその周辺の地域とのつながりは深いらしい。

「本当はもっと欲しいところなんだけど……あまり手広く集めすぎると、後々面倒なことになるからね。適度に自制しつつ地域の治安維持をするというのが、僕たち〈六角座〉の方針なんだよ」

「自制って……」

 眉をひそめた春臣に、志木は肩をすくめるにとどめた。

「今は政府系の絵師座が強い時代だ。草の根で活動する僕たちには少し厳しい時代なのさ。……まあ、今はそこら辺の難しい事情は抜きにして」

 彼はそこで声音を明るくすると、にこりと笑った。

「うちは良くも悪くも個性的な面々がそろっていてね。最初は戸惑うかもしれないが、きっと君ならすぐに仲良くなれるだろう」

 その言葉には、反論ばかりの恵も頷いた。

「それは同意だ。この上なく癖が強いが……まあ、君は大丈夫だろう」

「何を根拠にそんなことを……」

 春臣はがっくりと肩を落として言った。今は不安しかない。

 志木はそんな彼に笑って言った。

「はは、長年君を見てきた僕たちが言うんだ。安心しなさい」

 軽く笑った志木は、そのまま視線を恵に向けた。彼の堅物な式は、言わんとしていることを察してやれやれと首を振った。それから、眼鏡越しに藍色の瞳をじっと向けて口を開いた。

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