第拾七話
老師は、目を伏せてため息をついた。時間にすれば短い沈黙だったのかもしれないが、このときばかりはとても長く重苦しいものに感じられた。
「……志木くんたちに助けられて、そうして、春臣と会って……皮肉にもわしと春臣を繋いだのもまた絵じゃった」
玲陽は自らの手のひらに視線を落とした。絵筆を握り続け、多くの妖を祓い、多くの人を救い、一人の愛する人を守れなかった、その手を。
そして、一人の子供を育てた、その手を。
「……春臣が絵師になりたいと言ってきたとき。本当にあの子のことを思うなら、わしは嫌われてもいいから絵を教えなければ良かったんじゃ。絵を教えず、別の道を歩ませてやればよかった。そうすれば、こんなことになることもなかったのやもしれん」
「……主さま……」
春臣はぎゅっと目を瞑って、拳を強く握った。歯を食いしばらないと、喉の奥から嗚咽が漏れそうだった。
どんな思いで、玲陽は今まで自分に絵を教えてくれていたのか。そんなこと、考えたこともなかった自分が恥ずかしくて仕方がなかった。
もう聞きたくないと思っているのに、その場を去ることが出来なかった。何の術にかかっているわけでもないのに足は縫い付けられたようにどうしても動かなくて、さりとて今さら二人の前に姿を見せる勇気もなくて、彼はただ、突っ立って養父と姉代わりの式の会話を聞いていた。
「……あの子は心の優しい子じゃ。争いごとには向かぬ。じゃが、そのことをわかっていながら、あの子に絵を教えたのもわしじゃ。……今回の件は、そんな矛盾に見てみぬふりをしてきた報いなのかもしれんな」
玲陽は深いため息をついて、ぽつりとこぼした。
「……これでは、師としても養い親としても、失格じゃの……」
その言葉に、春臣はもう黙ってはいられなかった。
「──もう、やめてください!!」
気づけばそう叫んで二人の前に飛び出していた。これには彩玲も玲陽も相当驚いたようで、二人ともただただ春臣を凝視していた。
「坊ちゃま……!?」
「春臣………聞いて、おったのか………」
呆然としたような、それでいてどこか諦めたような表情の玲陽を目の前にして、春臣は目を伏せた。それから、思考がぐしゃぐしゃのまま、とにかく何かを言わなければという気持ちで口を開く。
「……先生は……僕に絵を教えたことを後悔されてるかもしれないですけど───」
そこで、春臣は顔を上げた。睨むように強い視線で、玲陽を見た。
「………僕にとっては、先生は先生です。大切な父であり、尊敬すべき師です!だからどうか……───」
顔が歪んだ。最後まで言うつもりだった言葉を一度飲み込み、春臣はうつむいて喉の奥から声を絞り出した。
「“失格だ”なんて言わないでください……ご自身を否定しないでください……」
長い長い沈黙。玲陽も彩玲も、何も言わなかった。春臣はただひたすらに漏れ出そうになる嗚咽を堪えてうつむいていた。
やがて、その沈黙を破ったのは、誰の声でもなかった。小さな衣擦れの音と、自分に歩み寄る足音。それから、ふと頭に乗った温かく大きな手のひらに、春臣は少しだけ顔を上げた。
「……春臣。すまんかった、春臣」
そこには、今にも泣きそうな玲陽の顔があった。
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