第拾六話

 夜半すぎ。

 春臣は自室の布団に転がったまま、目を開けていた。いろいろなことがあって疲れているはずなのに、即座に眠りに落ちるどころか睡魔が訪れる気配すらない。

「……はあ………」

 春臣はため息をついて、起き上がった。窓からこぼれる月明かりが、その横顔を照らす。つられるように、彼は窓越しに夜空を見上げた。

 耳の奥で、去り際に椿が残していった笑い声がよみがえる。それと同時に、うっかり眠ると、またあの黄昏の無音空間にいるのではないか───そんな気持ちが、浮かんでは消える。神経が高ぶっているのも一因だが、一番の理由はこれだった。

「……少し、夜風に当たろうかな……」

 誰に言うともなく呟くと、春臣は厚手の羽織に袖を通し足袋を履いて部屋を出た。夜ということもあって、廊下はしんと静かで冷えていた。

 その廊下を歩きながら、春臣の思考はずっと同じところを回り続けていた。

 白墨という画龍。彼女が守る“百鬼集”という名の書物。禍津神の椿という少女。その少女と契約しているという、狐井匡という名の大罪人の絵師。……あまりにも話が急展開すぎて、突飛だった。理解など及ぶはずもない。だが、考えても理解の範疇などとうに越えていて無意味なはずなのに、考えてしまう自分がいた。

「……………」

 嫌でも気分が沈む。もはやため息さえつくこともせず、春臣は何気なく縁側に続く廊下の角を曲がった。

 そして、そこにいた先客に足を止めていた。

「………あ……」

 縁側に腰をかけていたのは、玲陽だった。こんな夜半すぎに身体に悪いというのに、一人酒をしていた。普段なら真っ先に咎めるところなのだが、春臣はどうしてか口を開くことが出来なかった。いつもよりもずっと、見知ってきたその背中が小さく見えたせいかもしれない。

 どう言葉をかけるべきなのかを立ち尽くしたまま考えていた春臣の耳に不意に聞き慣れた声が飛び込んできたのは、そんなときだった。

「……主さま。お身体に障りますわ」

 見れば、ちょうど柱で死角になっていたところに彩玲が立っていた。白い月明かりに照らされる彼女はいっそう明るく、そして儚く見えた。

 玲陽は彩玲の言葉に苦笑を浮かべつつ、今まさに次を注ごうとしていた手を止めて徳利とっくりを置いた。しかし、さかずきを手放しはしなかった。彼は手の中でそれをもてあそびながら、苦い笑みを深めた。

「……これが、飲まずに居れると思うか?彩玲」

 少しかすれた声で、玲陽は言った。彩玲は何も言うことなく、沈黙を守った。玲陽はそれを特段気にすることもなく、伏し目がちに自分の老いた手を見つめた。

「……ずっと、迷ってきたんじゃ。わしは、ずっと迷ってきた……」

 低い独白が、風に乗って聞こえてきた。それは、普段からは想像もつかないくらい弱々しく、深い後悔を感じる声だった。

「……お紗也が死んだ日、わしはあれに誓ったんじゃ。もう二度と、絵筆など握ってやるかと。お前の見ていないところで、何度も指を切り落とそうともした」

 彩玲が息を呑む音が聞こえた気がした。図らずも盗み聞きをする格好になった春臣も、その言葉に耳を疑う。

 玲陽は自嘲を含んだ声で続けた。

「じゃが、……出来んかった……何度も何度もそうしようとするたびにそれと同じ数だけお紗也が頭の中で言うのじゃ。“それだけはするな”と……」

 ため息交じりに語られる胸中に、夜風すらも木々を揺らすのをやめたのではないかと思われるほど辺りは静かになっていた。その中で、玲陽があぐらをかいていた足を組み替える衣擦れの音だけが大きく聞こえた。

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