第拾一話
志木と恵は屋根の上から庭へと下りると春臣の傍に駆け寄った。
「よかった……恵を急かして来た甲斐があったよ」
志木の言葉に、恵は三つ目をぎょろりと動かして、ふん、と鼻を鳴らした。それから、煙と音を立てて人の姿に戻る。藍染めと黒の袴姿の青年は、いつも春臣が見ている恵の姿だった。彼はかけている丸眼鏡を押し上げて、相方を見た。
「強引に結界をかち割るのに骨を折ったのはどちらだと思っている、志木」
「まあまあ、結果として手遅れになる前で良かったじゃないか。今はそれを喜ぶとしよう」
さらりと言った志木は、そこで笑みを深めた。……いや、「笑みを深めた」というよりは、浮かべていた笑顔の質が変わったと言ったほうが正しいだろうか。
口元は笑っていて一見いつもの志木と変わらないように見えるのに、その目は明らかに笑っていない。抜き身の刃のような、背筋が寒くなるような笑みを口元に湛えて彼が見やる先には、腕を組んだまま静かにこちらを見ていたあの女性がいた。
「……ところで、あなたは誰かな。見たところ、人間ではなさそうだ。……こんなところまで彼を連れ出して、何が目的だ?」
後半の台詞には明らかな敵意がこもっていて、春臣はぎょっとして志木を見上げた。彼は、気鋭の絵師と呼ばれるにふさわしい隙のない表情を浮かべていた。傍らにいる恵も、黙したまま厳しい表情で女性を見ている。
今一度女性を振りかえると、彼女はあからさまな敵意を向けられているというのに、あろうことか愉快そうに笑っていた。
「……何がおかしいのかな?」
対象的に不愉快そうに眉をひそめる志木に、彼女は応えることをしなかった。
「私が誰か、か……そうだな」
代わりに小さく呟くと、女性は組んでいた腕を解いた。
「───私は描く者。さる書物を護ることを命とし、悪しき妖を封じる者」
朗々たる声音は、廃墟の隅々にまで響き渡るようで。月夜の下で口上を述べる彼女の姿は、どこまでも凜然としていて美しいと思った。
「我が名は、
「が、画龍……!?」
春臣は思わず声を上げてしまっていた。志木も驚きを隠せない様子だ。
画龍──絵師ならば誰もが信仰する、絵と筆を司る神。俗に筆神とも呼ばれる。皆が知り、崇めている存在が、今目の前にいることが信じられなかった。
二人の反応に、彼女───白墨は満足そうに笑った。それからそれまで静観していた恵に目を向ける。
「お前は、薄々勘づいていたようだな。あの獣姿……白沢と見受けるが?」
「……あぁ、そうだ。もっとも、今は一介の式に過ぎないが」
恵はため息交じりにそう言ったあと、真っ直ぐに白墨を見た。その横顔を、志木が軽く睨みつける。
「……知ってたなら何で早く言ってくれなかった」
「確証がなかったんだ。画龍は伝承の書の中の、ほんの一部分にしか出てこない。“白き髪を持ち、
志木は数拍の間を置いて、はぁ、とため息をついた。恵から視線を外すと、彼は改めて白墨に向き直った。
「画龍……白墨といったか。改めて訊こう。あなたは、春臣に危害を加えようとしていたのか?答え次第では、ただでは済まされないから慎重に答えたほうが身のためだよ」
言葉通りに、志木は懐から絵札帳を半分ほど引っ張り出していた。白墨は艶やかに笑って黙ったままだ。煽っているようにしか見えない。
一触即発の空気を打開しなければという思いだけで、春臣は気づけば絵札帳を構える志木の腕を掴んでいた。
「し、志木さん、待ってください!」
「春臣……?」
予想外だったのか、志木はらしくもなく素で驚いたようだった。春臣はその目を真正面から見て言った。
「あの人は、襲われてた僕を助けてくれただけです。危害を加えるようなことなんてしてません」
「襲われて……?いったい何に……」
「えっと……椿の髪飾りをつけた女の子だったんですけど────」
その瞬間、志木と恵の表情が変わった。月の光のせいだけではない、血の気の引いた顔になった彼らに、春臣はただ戸惑うしかない。
「………えっと、お二人ともどうされたんですか……?」
「………春臣」
しばらくして、志木が硬い声音で名を呼んだ。その表情には、珍しく余裕が無かった。
「ひとまず、〈結城屋〉に帰ろう。……詳しい話は、それからだ」
彼はそのまま、白墨を見やった。
「そちらも、ついてくるといい。……あれを追っていたのであれば、僕たちとも無関係ではいられないだろうから」
「ふむ……では、そうさせてもらおうか」
白墨はその場で深く訊くことはせずうなずいた。春臣ばかりが、事態に追いついていけない。
ただ、あの黒衣の少女はやはりただ者ではなくて───何か、とても良くないものであることは、察することができた。
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