第拾話

「あーあ、みつかっちゃった」

 白い女性の登場に、黒い少女はがっかりしたような、しかしどこか嬉しそうな表情を浮かべた。対して、それを見た女性の顔は不快そうに歪む。

「黙れ、下劣な成り損ない」

 強い言葉を吐いた彼女は、薙刀を構えるようにして筆を構えた。力強い黒の瞳が、鋭く細められる。

「貴様さえ、ここで封じれば………全ては終わる!」

 その言葉と共に、女性は一気に筆を横に一閃させた。穂先から放たれた白い墨の軌跡は見る間に一羽の大きな鷹の姿をとり、少女へと真っ直ぐに突き進んでいく。

 その様は、今まで見たどんな光景よりも幻想的で、圧倒的な力があった。春臣は自分が置かれている状況も忘れてその光景に見入っていた。

 白い鷹が矢のように少女へと迫る。その翼が、くちばしが、黒衣の少女を身体ごとふたつに引き裂く。ぽたり、とまるで本物の椿の花が落ちるように彼女の髪飾りが地面に落ちて、砕け散った。

 春臣は、血が噴き出し、見るに堪えない惨劇が広がるかと思ったが、結果として血は一滴も流れなかった。

 少女の身体が黒い霧となって霧散したのだ。

「うふふ、あはははは!」

 どこからか、少女の甲高い笑い声が聞こえた。それはやがて遠のいていき、完全に聞こえなくなる。

 それと同時に、春臣は急に自分の身体が自由になったのを感じた。うまく呼吸ができていなかった肺に、一気に空気が入り込む。

「ッ、…はッ、……げほッ!」

 思わず地面に片手と膝をつき、空いた手で胸のあたりをおさえてむせ返る。その様子を、白い女性は横目に見るだけだった。すぐにその視線は先ほどまで少女がいた場所に向けられる。

「……また、取り逃したか……」

 小さく呟かれた言葉は、生憎と春臣の耳に届くことはなかった。

 しばらくして呼吸が落ち着いてくると、春臣は立ち上がって筆を持ったままの彼女に詰め寄った。

「ちょっと!!どこの誰だか知りませんけど、死にかけてる人間目の前にして無視は薄情すぎやしませんか!?」

 普段怒ることはなかなかしない春臣でも、さすがにこれは一言物申したかった。曲がりなりにも死にそうなくらい咳き込んでいるというのに、気遣いの言葉のひとつもないのはどうなんだろうか。そう思って食ってかかったのだが、女性の対応は想像以上に冷たかった。

「死ななかったんだ、別に良いだろう」

 彼女は片手を腰に当てるとこう言い放ったのである。予想の遥か斜め上をいく切り返しに、春臣はとっさに返す言葉がなくて口をぱくぱくと開閉するしかなかった。

 その隙に、女性は持っていた筆を文字通り霧散させる。どんな仕組みになっているのか知らないが、先ほどの所業といい、彼女が人間でないことはもはや明白だった。

 彼女はいっそ優雅ともとれる所作で腕を組むと、興味深そうに春臣の顔をのぞき込んだ。

「それにしても、お前は妙なやつだな。私を呼び起こすくらいだから相当の式でもつれているのかと思えば……その歳でまだ未契約か。道理であんな輩に目をつけられるわけだ」

「………は?」

 春臣は間の抜けた声を上げてしまった。なぜ初対面でこんなにもめちゃくちゃに言われているのだろうか、自分は。

 思考が追いついていない春臣のことなどどうでもいいのか、彼女はひとつため息をつき───そこでふと空を見上げた。

「………ふむ、式はなくとも、力のある知己ちきはいるようだな」

 つられて春臣が空を仰いだときだった。

 切ない色合いの空にぴし、とヒビがひとつ入った。それは見る見る大きな亀裂となり、ガラスが割れる要領で砕け散る。

「うわっ!?」

 破片が刺さると顔を背けて頭を覆った春臣だったが、それは驟雨しゅううとなって彼に降り注いだ。

「え………?」

 黄昏の空が割れた向こう側にあったのは、月が煌々と照る夜空だった。周囲も家の庭ではなく、草木が鬱蒼と生い茂ったどこかの屋敷の庭に立っている。

「え、あれ?ここ……どこ?」

 あまりの変わりように挙動不審になっている春臣を見かねたのか、女性が声をかけてきた。

「馬鹿め……お前が今までいた空間は、いわば作り出された空間だったというわけだ。まあ、相手が相手だったから看破するのは厳しかっただろうが───」

 そこで彼女は言葉を切って、屋敷の屋根の上を見上げた。

「見事、看破してきた者もいたようだな」

 彼女の視線の先をたどった春臣は、そこにいた彼らの姿に思わず気が抜けて泣きそうになってしまった。

 屋根の上にあったのは、大きな犬のような獣に乗った一人の男性の姿。獣は三つ目で、白く美しい身体全体に紋が走っていた。

 そして、その獣に乗っているのは、紅の羽織をはためかせた男性。白地の帽子が、青白い月の光を受けてぼんやりと浮かび上がって見えた。

「…………志木さん……恵さんも……」

 聞こえるはずのない距離なのに、獣姿の恵に乗った志木は、かすかに笑ってみせた。

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