第玖話

 目を覚ましたとき、世界は既に黄昏に染まっていた。寝ぼけまなこで身を起こした春臣は、すぐに違和感を覚えて覚醒した。

「…………」

 家の中が、ぴん、と糸を張ったような緊張感に包まれていた。彩玲の術が強化されたせいかとも思ったが、春臣の本能がその可能性を否定していた。

 根拠はないが、彩玲ではない。こういう直感は得てして当たるものだということは、玲陽から嫌というほど聞かせてもらっていた。

「───…………」

 春臣は、文机の上に置いておいた筆をとると、絵札帳を抱え込んだまま慎重に部屋から廊下に出た。

 なるべく音を立てないように注意しながら、廊下を歩く。途中、壁にかかった振り子時計を見て、春臣の勘は確信に変わった。

(……振り子が止まってる……)

 廊下にの壁にかかるのはネジ巻き式の時計だが、あの時計のゼンマイはつい昨日、春臣が自分で巻き直したはずだ。そう簡単に止まることはないはずだった。それに、振り子時計特有のかちこちという音すら聞こえないのは、明らかに異常だった。

 程なくして、蔵と母屋を繋ぐ小さな庭に出る。さわさわと風が吹いても良いはずなのに、まったくの無風というのは本当に気持ちが悪い。落陽が放つ黄金にも似た黄昏の光だけが満ちる世界で聞こえる音は、どくどくと脈打つ自分の鼓動と嫌でも数が多くなる呼吸の音だけだった。

(………よし……)

 春臣は、意を決して庭に下りた。画鬼を使う準備はいつでもできていたし、使うなら狭い屋内よりも庭のほうが都合が良い。

 じゃり、と草履が砂を噛む音がやけに大きく聞こえる。耳に痛いほどの無音空間の中で、全神経を集中させて周囲に気を配る。

 ────そのときだった。

「かーごめかごめ……」

 不意に、幼い子供の声がした。

 ぎょっとして振りかえる。だが、そこには誰もいない。

「かぁごのなぁかのとりはぁ……いぃつぅいぃぅぃつぅでぇやぁるぅ……」

 空間全体に声が響く。どこから聞こえるのだろうか。

「だ、誰だ!!」

 春臣が声を張り上げても、歌は止む気配がない。わらべ歌がかえってそこはかとない不気味さをかきたて、春臣は自分の背筋を冷や汗が伝うのを感じていた。

 そして、

「──うしろのしょうめんだぁれ?」

 その声は春臣のすぐ後ろで聞こえた。

「────ッ!!!」

 勢いよく振りかえれば、腕を伸ばせば届く距離に一人の子供が立っていた。

 歳は7、8歳くらいか。黒一色の着物に袖を通し、鮮やかな紫の帯を締めている。足元は子供用の木履ぽっくりを履いていて、肩口できれいに切り揃えられた髪には大きな椿の髪飾りが花開いていた。

 見た目だけなら、かわいらしい女の子だった。だが、春臣は本能的にこの幼い少女が非常に危険な存在であることを感じ取っていた。

 そして、その直感は不幸にも的中することになる。

「───みいつけた」

 少女は、手鞠を手にしたまま、にんまりと笑った。無邪気で、純粋で……この異様な空間の中で、それはあまりにも不釣り合いな笑みだった。

 少女の手が伸びてくる。はねのけようとして、春臣はこのとき初めて自分が指一本動かせない状況に陥っていたことを知った。

「ッ………!」

 声すら上げられない状況。恐怖が全身を覆いつくしていく。早鐘のように鳴る心臓に、白くて小さな指先が伸びる。

 そのときだった。

「───ようやく見つけたぞ」

 耳慣れない、女性の声が聞こえた。それと同時に、少女めがけて白い軌跡が目の前を走る。黒衣の少女は、それを後方に飛んでかわすと、笑みの張り付いた表情をわずかに曇らせた。地面に突き立った白の線の正体は、驚いたことに墨で描かれた矢──つまりは、画鬼だった。構造上、点睛できない無機物は画鬼にはなり得ないはずなのだが、目の前の地面を穿った矢は、通常の画鬼と同じように霧散して消えた。

「ち……仕損じたか。まったく、どこまでも手こずらせてくれる」

 そして、そう悪態をつきながら春臣の前に現れた人物を見て、春臣は瞠目した。

 見慣れない白の衣装。その手には身の丈ほどの大きな筆。真っ白な髪は腰を越えるほどで、美しい横顔は、見間違えようもない──つい朝方見たばかりの、あの書物に描かれていたはずの女性が、目の前に立っていたのである。

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