第漆話

 その沈黙を破ったのは、それまで最低限の言葉しか発しなかった彩玲だった。

「まあ、妖であれば、まず私が感知しておりますし……ひとまずは、恵殿にその書物のことを訊いてみるのはいかがですか?彼は白沢──万物を識ると謳われる賢者ならば、何かご存じかもしれません」

 彩玲の言葉にうなずいたのは志木だった。彼は帽子を被り直すと、杖でこつん、と床をついた。

「それならば、僕が恵に聞いておくことにしよう。何かわかり次第、また訪ねさせてもらうよ」

 春臣は志木を見上げた。まさかこんな話の流れになるとは思ってもみなかった。

「志木さん……すみません、なんか、変な話をしてしまって……」

 志木はかすかに微笑んで、春臣の頭に手を置いた。言外に安心しろ、と言ってくれているようだった。

「そんな顔をしてくれるな、春臣。僕のほうこそ、不安にさせるようなことを口にしてしまって悪かった。……そうだ、参考までに、他に特徴があったなら教えてくれないか」

 春臣はうなずいて、思い出しうる限りのことを彼に話した。

 志木は懐から取り出した小さな手帳に筆でさらさらと特徴を書き出すと、うん、とひとつうなずいてそれをしまった。

「では、失礼。恵が何か知っていれば良いんだが……まあ、期待を裏切らないように善処させてもらうよ」

 そう言い残して結城屋を出ていった志木を見送った春臣の背に、玲陽が声をかけたのは、それからすぐのことだった。

「……春臣」

 振りかえれば、番台で玲陽が難しい顔をしていた。

「今日は、店を閉める」

 唐突に言われた一言に、隣にいた彩玲も驚いたように彼を見た。

「……主さま?」

「え?ど、どうしたんですか、急に……」

 春臣と彩玲の戸惑いにも、玲陽は厳しい表情を浮かべたまま、膝の上で手を組んだ。

「……どうも、胸騒ぎがしてならん。長年の勘とは言わんが、こういう嫌な予感は外したためしがないのじゃ」

 彼は、強く組んだ手をかすかに震わせていた。

「……お前に何かあったら、お前の親御にも申し訳が立たん。……何より、また家族を失うのは……」

 春臣は、絞り出すようなその言葉に何も言うことができないままただ立っていることしかできなかった。

 第一線で活躍していた玲陽が身を退いたのにはわけがある。長年連れ添った妻が、妖によって殺されたのだ。彼自らが仕留め損なった鬼の妖に喉を食いやぶれるようにして、死んでいたのだという。

 それを機に、玲陽は自責の念から絵師として活動することをやめた。そして、周囲の声もあって、式の彩玲と二人で小さな文具屋を開いた。

 それが、春臣が玲陽に引き取られる5年前のことだ。

 当時のことを知る志木からは、玲陽は春臣が来てから随分明るくなったと聞いている。よく笑い、昔と変わらないくらい元気になったと。

 だが、春臣は知っている。この老師がいつも肌身離さず妻の形見の櫛を持ち歩いていることを。傍目には立ち直ったように見えても、その心の奥底ではずっと苦しんで、自分を責め続けてきたことを。

 そして、春臣以上にそんな玲陽の姿を見てきたのは、いつも彼の傍らに寄り添ってきた、彩玲だった。

「……主さま。大丈夫ですわ」

 表情の見えない式は、その白い手で老いた主の手に優しく触れた。玲陽はしばらく黙っていたあと、ゆっくりと顔を上げた。

「……あぁ、ありがとう、彩玲。わしとしたことが、詮ないことを言ってしまったな」

 皺の刻まれた顔をもっとしわくちゃにして、玲陽は彩玲の頭をそっと撫でた。それから、気を取り直すようにして一度大きく息を吐いたあと、彼は口を開いた。

「とにかく、少なくとも今日は店を閉めよう。志木くんも恵くんも優秀じゃから、今日中には何かしらの情報をくれるじゃろう」

「……そう、ですね」

 春臣には、そう言うことしかできなかった。

 こんなときに何と声をかければ良いのか、若い彼にはその術がわからなかった。

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