第陸話
店に戻ると、そこには玲陽の他に一人の男性の姿があった。黒の和服に紅の羽織を肩にかけ、白地の帽子を被り、手には杖、足元にはブーツという姿が何ともハイカラだ。
玲陽と談笑していたらしい彼は、春臣の姿を見ると笑顔を浮かべて手を挙げてくれた。
彼の名は
「やあ、春臣、彩玲。遅かったね」
「志木さん、いらしてたんですね!」
春臣は木箱を下ろすと彼に歩み寄る。彩玲は玲陽の傍に控えると、その場で志木に頭を下げた。志木はそれに応えると、改めて春臣を見下ろした。
「今日は時間があったからね、寄らせてもらったんだよ。そうしたら店番を玲陽さんがしていたものだから、君は調子でも崩したのかと思っていたところだったんだ」
志木の言葉に大笑いしたのは玲陽だった。
「はっはっは!なに、いつものうっかりでちと蔵に行っておったのじゃよ」
「ちょ、先生……!」
憧れている志木の前で自分の醜態をさらされるほど恥ずかしいものはない。春臣が焦って玲陽を見ると、志木は楽しげに肩を揺らして笑った。
「ふふ、まあ、元気なようで何よりだ」
「うぅ……そう言っていただけると助かります……」
肩を落とした春臣だったが、そこでふとあることに気がついた。
「あれ?そういえば、恵さんはどうされたんですか?」
志木の式、恵は、理知的な印象を受ける白沢と呼ばれる妖だ。いつもなら彼と行動を共にしているはずなのだが、今日は姿がない。
珍しいと思って主たる志木に尋ねたのだが、彼は爽やかな笑顔でさらりと言った。
「あぁ、恵なら置いてきたよ」
「へっ?」
春臣が目を丸くすると、志木はやや大仰な仕草で肩をすくめると深いため息をついた。
「恵は心配性が過ぎるからね。たまにはああしないと、どこまででもついてくる。今日の僕は、一人で出歩きたい気分だったんだ」
「……えっと……ああしないとって……いったい何をされたんです……?」
春臣がおそるおそる尋ねたものの、志木は無言でにっこりと笑みを深めたのみで何も語ってはくれなかった。きっぱりと言い切った志木に笑ったのは玲陽だけだ。
「はっはっは、恵くんも苦労するのう!」
「同じ立場のよしみとしては、少々不憫ではありますが……」
愉快そうに笑う玲陽の隣で、彩玲はなんとも言えない声音で言った。
春臣は苦笑を浮かべながら、放置してしまった木箱の下に戻った。ふたを開け、何冊かの新品の麻葉綴を取り出して棚に並べる。その作業を並行しながら、春臣は先ほどの書物について玲陽に訊いてみることにした。
「あ、先生。先生の蒐集品に、小口のない書物ってありますか?」
孫ほど年の離れた養子の言葉に、玲陽は首をかしげた。
「はて……そんな変わった書物があるなら、まず覚えているはずじゃが……。そんなもの、どこで見かけたんじゃ?」
「蔵の中で見たはずなんですけど、気がついたら影も形もなくて……。彩玲も見てないって言ってましたし、白昼夢みたいなのでも見ちゃったんですかね?」
冗談めかして言ったつもりだったのだが、玲陽もその場にいた志木も、先ほどとは打って変わって真面目な表情を浮かべた。
「え……あれ?何かおかしなこと言いましたか?」
戸惑いながら二人を見比べると、しばしの間を置いて志木が最初に口を開いた。
「……春臣、君はたしか、まだ式を持っていなかったね?」
いきなりの志木の質問に、春臣はいささか面食らったあと、うなずく。
「え、あ、はい」
「式を持っていない絵師は、妖に狙われやすいんだ。画鬼を操る僕たち絵師の力というのは、自分たちを祓う忌々しいものである一方、喰らうと自分の力を飛躍的に高める効果のあるものともされている」
そこで志木は、そうだね?と同意を求めるように彩玲を見た。彼女は無言でうなずいた。
「じゃから、どんな形で妖と関わりを持ってしまってもおかしくはないんじゃよ」
志木の言葉を引き継ぐようにして口を開いたのは、玲陽だった。老師はいつもの明朗な光を宿す瞳を鋭く細めて続けた。
「その妙な書物……悪しき妖でなければ良いのじゃが」
玲陽の放った不穏な台詞に、一同が沈黙する。壁にかかった時計だけが、かちこちと律儀に時を刻む音がやけに大きく聞こえた。
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