第参話
玲陽は愉快そうに笑うと、ふと真顔になって春臣を見た。
「そういえば、もう開店時間ではないかの?わしもそろそろ、そちらに行こうかと思っておったんじゃが……」
「あぁぁそうでした!」
春臣はぽん、と手を打った。玲陽のおかげですっかり忘れそうになっていた。
「先生、彩玲を喚んでいただけますか?僕のうっかりで、店先に在庫がなくなりそうなものがあって……蔵に入りたいんです。」
「おお、そうじゃったか。お前のうっかりもなかなか治らんのう」
「……うう、反論できない……。これでも治す努力はしてますよ?」
「うむ、それはわかっておるよ。昔は何もないところで転んで大きな怪我をしたり、墨をぶちまけて彩玲が頭から真っ黒になったりもしたからのう。それに比べれば、よくなった方じゃ」
そして老師は不意に、言葉の続きを何もいないはずの虚空へと投げかけた。
「───のう、
その言葉に応えるように、ちょうど玲陽の視線の先でひとつの光が弾けた。それは一瞬の後にゆらりと揺れて、人の形を取る。光が収まった後、宙に浮かんでいたのは一人の女性の姿だった。
全体に大きな紋が描かれた面をつけているので、顔はわからない。だが、品のある着物姿や細い指先などから、若い女性だということは察することができた。
彼女の名は、彩玲。玲陽と契約を結んだ妖──式であり、この建物全体を自身の結界で守り続けている。蔵の鍵も、彼女の術によって普段は施錠されているのである。
「ええ、そうですね。この彩玲に墨をぶちまけることがなくなっただけ、着実に坊ちゃまのうっかり病は治っておりますわね」
彼女は、宙に浮いたまま面の裏でくすりと笑った。くぐもってはいるが、不思議と響く声音だ。
春臣はふてくされた顔で、ふわりふわりと浮かぶ彩玲を見上げた。
「もう、彩玲まで……。それと、もう“坊ちゃま”なんて歳じゃないっていつも言ってるでしょ?」
「ふふ……私にとっては、いくつになろうと坊ちゃまは坊ちゃまですから。いくら坊ちゃまのお願いでも、今更呼び名を変えることは承知しかねますわ」
「……彩玲、これ見よがしに“坊ちゃま”って連呼してない?」
「ふふっ、何のことでしょうか?」
表情はいっさい見えないのに、彩玲はとても楽しそうだ。反論したいのは山々だが、春臣にとっては姉のような存在なのでいろいろと頭が上がらないというのが現状である。
「ほれ、談笑するのも良いが、店を開けるのじゃろ?蔵に行っておいで」
二人のやりとりを微笑ましく見ていた玲陽が、そこで口を挟んだ。彼は自らの式を見上げる。
「彩玲、話は聞いておったろう?蔵を開けておやり」
「承知いたしました、主さま」
彼女は空中でうなずくと、春臣を振り返った。
「それでは、坊ちゃま。先に参り、開けておきますね」
「わかった」
春臣がうなずくと、彩玲は現れたときと同じように光の塊になった後、宙に消える。春臣はそれを見届けた後、玲陽に一礼した。
「では、先生、行ってきますね」
「うむ、わしは先に店に出ておるぞ」
「ありがとうございます、すぐ戻りますからね!」
「急ぎすぎて品物をぶちまけるでないぞ?」
「そこは言わないとこですよ!」
そう言って、春臣は玲陽の部屋を後にした。
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