第弐話
春臣がまず向かったのは、玲陽の部屋だった。蔵の鍵の管理をしているのは玲陽だからだ。
「先生、失礼しま───」
そう言いながら障子を開けた瞬間だった。
「!!捕まえろ、春臣!!」
「へ────」
普段は聞かない鋭い声が飛んだこと、それから視界いっぱいに何か白いものが飛び込んできたことに完全に反応が遅れた。間の抜けた声を上げて立ち尽くしてしまった春臣が事態を飲み込むことが出来たのは、飛び込んできた物体に思いっきり押し倒されてしたたかに腰を床に打ち付けた後だった。
何やらがずっしり胸にのしかかっている。そして、盛大に顔を舐められている。所詮実体がないものだとわかってはいても、春臣は顔を背けて全力で抵抗するしかなかった。
「ああああもう!!いったい何してるんですか、先生!!」
悪態をつきながらべりっと引き剥がすようにして確保したそれは、真っ白い犬だった。大きさは両腕で抱えるくらいで、ふわふわの毛並みが目を惹く。だが、その毛の流れや笑ったような口元、そこからのぞく舌は、生身の犬とは根本的に異なる特徴を示している。
そのどれもが、墨で描かれているのである。
「お願いですから、そんなに気軽に画鬼を点睛しないでくださいよ。それか、点睛するなら僕を呼んでください。もしこのまま逃げられていたらどうするつもりだったんですか?玲陽先生」
春臣に苦言を呈された本人──結城玲陽は、いい加減薄くなった白髪を撫でながら大笑した。
「はっはっは、大丈夫じゃよ。いくらわしの画鬼とはいえ、彩玲の結界は突破できんじゃろ?」
きっぱりと言い切られた春臣は、ため息しか出ない。この老師はいつもこうなのだ。
腕の中で至極満足そうにふんぞり返って尻尾を振っている白い犬を玲陽に突き返すと、彼は持っていた朱筆でその目に一文字を引いた。すると、犬はきゃん、とひと鳴きした後霧散した。
これは、俗に「画鬼」と呼ばれているものだ。一番わかりやすくいえば、式神に近い存在である。遙か昔に人間が神より賜り、妖から身を守るために受け継いできた力が顕現したものともいえる。
そして、その力を以て妖を祓うことを生業としている者たちを、皆は絵師と呼ぶ。
「先生ほどの力の持ち主だったらわかりませんよ。破る可能性だってあります」
春臣の言葉に、玲陽は肩をすくめた。
ここにいる結城玲陽は、長くその第一線に立っていた実力ある絵師だった。
「持ち上げすぎじゃよ、春臣。……それに、お前なら何かある前に自分の画鬼でどうにかしてくれるじゃろう?」
そして、春臣もまたその技を受け継ぐ者の一人だった。彼は師の言葉に苦く顔をしかめた後、観念したように深くため息をついた。それから、疑惑の眼差しで飄々とした顔を見る。
「先生……まさか本気で放つつもりだったんじゃ……」
「嫌じゃのう、そこはかわいい弟子のためを思ってじゃな───」
茶目っ気たっぷりに片目を閉じた老師に、春臣はもはやなにも言う気になれなかった。
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