第5話 小説でも書いたらいいのに

 普通だったはずの僕と僕の学校生活と家庭が、今日普通でなくなっている。一体何が起きようとしているのだろうか。


 音羽に興味がなかったわけではない。だからと言ってそれが即恋愛感情にシフトするものでもないし、言葉すらまともに交わしたことが無かった今迄からすれば性急というものだ。


 だが今僕は音羽と、母と妹とで四人の食卓を囲んでいる。女が二人でもうるさいというか、脈絡のない会話を延々と続けているのに呆れて、早々に二階の自室に避難する日常なのだが、今日は三人だ。それはもう、僕が口をはさむ隙間すらない。仕方がないのでただ黙々と食が進む。音羽はこんなに良く喋るのか。


 仮に僕に音羽との話題を振られたとしても、僕にとって音羽は学校一の変人であるという認識しか示せない。それをこの席で得意げに弄すれば、空気が読めないバカ息子、イケてない兄貴と誹られるだけだ。困ったことだ。この後どういう展開になるのかまるで予測がつかない。


「あ、のお。榊さんから見て、うちのお兄ちゃんってどう見えるんですか?」


 妹よ、バカなことを訊くな。音羽が困るだろう。


「そうそう、この子学校のこととか全然話さないから。家でもすぐ部屋に籠るし」


 母よ、あなた方の会話が聞くに堪えないからです。


 音羽から見れば僕なんて普通でしかない。特別な自分を引き立てるその他大勢のうちの一人。音羽が答に困るだけだ。


「うーん……鴻上君の話はいつも面白いですよ」


 え?


 思わず顔を上げた僕に、薄い顔をした音羽がほとんど気づかないような微笑みをむけた。彼女と話をしたのなんて今まで数回だけだ。まして彼女を面白がらせるような話なんて僕はしていないはずだ。


「と、いってもあたしは傍で聞いているだけなんですけどね。でもわかりやすくて、それでいて深い考え方だなって、いつも感心してるんです」


 やめてくれ。僕は誰かに特別褒められるようなことは何もしていないし、できてもいない。お為ごかしなら尚更やめてほしい。ここでいい人ぶって何の得になる。


 へえ、という顔を母と妹は僕に向ける。彼女たちの好奇の視線に耐えられず、ごはんをかきこみながら茶碗の盾で防御した。


 確かに僕は喋りすぎるきらいがある。喋りだすまでは人の話を黙って聞いていることの方が多く、そのまま聞き手で終わることもある。だが、本の読み過ぎのせいか耳年増というか、つい会話の流れをぶった切るように、得た知識を得意になって披露していることがままある。あるいは自己流の考察を述べたりなんかさせると、休み時間の終わりまで一人で喋っていることがある。


 我を忘れて。


 喋りすぎてよく後になって反省する。周りはなんか物知りな奴だな、ってくらいには認識してくれているかもしれないが、多分面白いとは思ってもらえていないだろう。


それに僕はそれほど本を読むのが好きなわけじゃない。ちょっとだけ趣味で小説のような物を書いているだけだ。恥ずかしくてそのことは誰にも言ったことが無い。自慢できるような成果も出ていないし、見せる人もいないから。自分が全然書けていないこともよくわかっている。


「小説でも書いたらいいのに」


 ん、誰が言った?


 僕は茶碗の盾を下ろして三人を見た。母と娘の視線は音羽に向いていた。


「そんなの、書けるわけないだろ」音羽の顔を見ず視線を落として言い逸らす。


「書いてみなきゃわからないじゃない」と、妹が援護射撃。


「話が面白いってだけで小説書けるなら誰も苦労しねぇ。ちょっとばっかし文章がうまく書けたら賞に出せばとか、簡単に言うなよ。俺より上手い奴なんてゴマン人以上いるんだからな」


「ごまんと、でしょ?」音羽が笑う。


「――わざとだよ。榊だって絵描くならよく言われるだろ?」


 少なくとも放課後の美術室で個人的に絵を描くぐらいだ、今までも何かといわれることは多かったに違いない。



「そおねぇ、確かに言われたなぁ。みんな特別なことだと思っているからなんじゃないかな? なんか、くすぐったいよね」


 誰に同意を求めているのかと思ったが、音羽のその目は少し寂しげに見えた。


なんとなく会話が着地してしまった感があり、やがて四人の奇妙な食卓は父の帰宅と共に下げ膳とされ、僕らはリビングへと移動した。


 後ろでは母が父に事情を話し、車を出してくれないかという旨を伝えているが、父はどうやら駅前で一杯ひっかけてきたらしい。一瞬、このまま音羽を泊めることになるのでは、という思惟が横切った。


なんだこの展開は、あり得ない。そして僕の股間、一瞬でも反応したことを恥じろ。何を考えている。たとえそうなったとしても僕の部屋で一緒に寝るなんてありえないだろう。


「制服乾いたわよ」と母の声が僕を現実に引き戻す。


 音羽は深々と礼を言い、受け取りに洗面所の方へと向かった。犬の首輪はしてこなくていいんだぞ、と口に出さずに心で念じた。



 結局、夕方から急速に接近した台風は、さっきまでの勢いが嘘のように失われ、窓から外を覗くと、上空には月が輝いていた。父はこのタイミングを見計らって帰宅したのだという。風もなく雨は完全に上がっている。だが気象観測図によると依然台風は僕らの街を含む広範囲にわたり停滞したままだ。


「台風の目に入ったんだ。外見てみろ、なかなか見れない光景だぞ」


 僕らは玄関を出て空を見上げる。


 巨大なすり鉢の底にぽっかり開いた穴から月が顔を覗かせ、その光が渦巻状の幾重にも重なる雲の片鱗を照らし出している。まるで何匹もの巨大な龍が満月を讃えるように、同じ方向に向かって円を描いて飛んでいるかのようだ。


それらが形成する巨大な雲の筒はおそらく僕らの街をすっぽりと覆うほどの大きさで、天変地異の前触れにも見えなくはない。


 正直、畏れを感じる。膝頭が震えるような怖さではなく、魂があけすけにされる焦燥感、もっとわかりやすく言えば裸で広大な草原に一人放りだされる不安感、そこに人ならざる大きなものの存在を感じ、ただ立ち尽くす気分。畏怖の感情とはこういうことを言うのだろうか。


 僕らはそのダークグレーの空に光輪が浮かび上がる、神秘的な空から目が離せなくなり、言葉を失う。


 この街の周辺以外では、猛烈な嵐が吹き荒れているのに、今ここだけはこの世と隔絶されている。隣で妹と母がスマホのカメラを空に向けてシャッターを切っていた。少し離れた場所で僕と音羽はただ中心に佇む月だけをじっと見上げていた。


 すぐ左隣に触れるほどの距離に彼女の肩があった。さすがの彼女もこの光景には驚いているようだ、すごいすごいとはしゃぐでもなく、ただ唾をのむ音だけが生々しく聞こえた。


不意に僕の手の甲と音羽の手の甲が触れる。どちらから触れたのかはわからない。でもただそれだけなのに、心臓が飛び出るほどにドクンと高鳴った。


 なぜだろうか。


 僕は音羽の手を握っていた。空を見上げたまま。音羽も僕の手を握っていた。


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