第4話 傘を探すのに濡れていたら意味がない
連れてゆかれたのは校舎の裏にあるゴミ捨て場だ。普通ゴミはポリ袋に入れられて一箇所にまとめられているが、不燃ゴミや大型のゴミは端のコンクリートブロックで仕切られたスペースに山積みになっている。
なるほど、音羽がやろうとしていることがわかった。ここからゴミとして捨てられた傘を拝借しようということだ。傘なんて骨が折れればすぐにゴミとして捨てられる。昔は修理して使っていたなんて話も聞いたことがあるけど、今は買ったほうが安いという一言で済まされる。
「雨がしのげればいいんだからさぁ」
そう言って外灯に灯されたゴミ捨て場を探る音羽の制服の背中はびしょ濡れだ。まだ夏服のままだったので濡れると肌が透ける。薄暗くとも青春真っ盛りの僕の目には見える、彼女のブラジャーは赤だった。なるほど、“首輪”と揃えているのかと馬鹿な納得をしていた。
「あのさ、これって、もはや傘を探す意味ある?」
「うーん?」
僕の質問の意味が分かっていないのか、顔をこちらに向けることなく音羽は真顔でゴミ捨て場の隅々を凝視している。
「傘を探すのに濡れてたら意味ないんじゃないかって――」
「ふふ」と音羽は笑う。
僕はふと、彼女の奇行にただ付き合わされているのではないかと思った。ヘタをしたら、彼女なら、“骨だけになった傘をさしてずぶ濡れのまま帰る”つもりかも知れない。それであえてゴミ捨て場で骨だけの傘を探しているのかもしれない。
そう考える方がこの音羽と豪雨とゴミ捨て場というシチュエーションにはふさわしい。彼女は表現者(アーティスト)なんだ。
「はい!」
その言葉に我に返った。音羽が僕に向かって傘を投げてよこした。骨だけではない。ちゃんと布もついてるし穴も空いてない。あえて捨てられた理由を言うなら、チェックの柄がたたまれていた部分とそうでない部分が色あせてまんだらになってしまったからだろう。
「何ぼおっとしてるの、早くさしてよ。まともなのはそれ一本だけね」
「あ、ああ」
僕は傘を開き音羽に差し向けた。
「駅まで送ってよ。もうバスないし」
ないわけではない。あっても通学時間帯を大幅に超えたため本数が極端に減るのだ。だがこうして傘を探していなければバス停までは濡れても、バスには乗れたはずだ。音羽の行動すべてが無駄に思える。
下着までびしょ濡れで傘の下に二人で肩を並べて。僕は自転車を押す右側は雨に濡れたまま。傘をさす彼女は左肩に傘から落ちる雫を滴らせている。かろうじてお互い頭と顔が濡れる不快感から逃れられているに過ぎない。彼女が乗る駅までは五キロはある。このままその距離を歩いていたら二人共風邪をひいてしまう。
「乗れよ。後ろ」
僕は音羽にそう告げて、彼女の手荷物を取り上げて前かごに入れる。音羽は、ああそうか、という顔をしながら、後ろの荷台に跨り、傘をさす。
「ちょっと、前が見えないよ。もうちょっと傘高く上げて」
「はいはーい」
僕は後ろを振り向く余裕がなかったが、なんだか音羽は愉しそうだった。
車のライトが後ろから迫り、僕らをゆっくりと追い越してゆく。けして広いとは言えない歩道のない道は、車の運転手側も接触しないか恐る恐るだろう。まして傘をさして二人乗りだ。
歩くよりも速い速度で僕らは駅への道を辿る。時折ブルっと震えが体を襲う。九月とはいえ雨に打たれて日が暮れた中を自転車で走ると、夏のあいだ忘れていた寒さというものを思い出させる。
音羽の左手は僕の制服のシャツを掴んでいる。こんな状況今までに想像すらしたことがない。女の子と傘をさしながら自転車を二人乗りなんて。
警察に捕まったらダブルで注意されるだろうなと思ったが、僕は今この状況をどこか楽しんでいる。そして迷惑な気持ちが少しだけある。そして、訊きたかったことを訊けると思った。
「あのさ、榊ってさ、なんで――」
「ええ?」
「榊は何で――」
「きこえない!」
「――さ……寒くないかって! 訊いたの!」
「ちょっとねぇ!」
「うち、この近くだから寄って行きなよ!」
自分で自分の口から出た言葉に驚いた。彼女とまともに話したのが今日が初めてといってもいい程の関係なのに、家に呼ぶなんて。
でもそれが一番ましな選択肢だ。彼女の家は遠い。ここからまだ一時間はかかる。それにずぶ濡れになった女の子を電車に乗せて、それじゃあさようならなんて可哀想だと思った。まだエアコンの効いた車内はさぞ寒いだろうと。それだけで風邪をひいてしまうだろうと。
駅前へとつづく道の角を曲がり、家の方へと舵を切った。彼女がもし遠慮しても強引に連れて行かなきゃいけないと思ったから、返事は聞かなかった。
ずぶ濡れの僕らを母は玄関で迎え入れてくれた。先に電話を入れておいたからすぐに浴室まで音羽を案内してくれた。
音羽は礼儀正しく頭を下げ、むしろ恐縮しているといった風だ。普通ならそうだろうな、と僕はタオルで頭を拭いて音羽がシャワーから上がるのをリビングで待っていた。
母はそんな僕に特に何も言わずに、普通の母親として音羽に接してくれた。制服は乾燥機にかけるから乾くまでこれを着ておいて、と妹の部屋着を用意した。今日は音羽が“比較的普通”でよかったと思った。でなきゃ家にも連れてこなかった。金髪やピンクの髪を見たら母は卒倒する。
「ねね、あの人お兄ちゃんの彼女?」と、脇から顔を覗かせるのは中学三年生の妹だ。特に可愛いわけでもなく、特別な趣味があるわけでもない受験勉強と恋バナに興味津々の十五歳。やっぱりそう訊いてくると思った。
「全然、そんなんじゃない。家が遠いんだよ。雨に濡れたから――それだけ」
「なぁんだ、つまんない」
彼女だったらつまんなくないのか? けど別の機会に音羽を見てみろ、そんな言葉でないから、と言いそうになったがやめておいた。僕は一体何をやってる。
妹が持ってきた暖かいカフェオレを飲んで胃が温もりに満たされる。ソファの背にもたれると自然とため息が出た。これはなんのため息だろうか。
「鴻上くん、ありがとね」
左耳に届いた声に振り向くと、音羽がそこにいた。妹のTシャツに短パン。細身の音羽にはすこし大きいくらいに思える。
「すみません、着替えまで借りちゃって、ありがとうございます」と、続いて音羽の分のカフェオレを運んできた妹に頭を下げる。妹は目を丸くして「いえいえ、そんな」と、恐縮して腰を丸めて後ずさりし、キッチンの方へ逃げていった。
音羽は向い側のソファに腰かけ、両手を添えてカップを持ち上げる。ピクリと小さな鼻が動いて顔を近づけ、ふぅと息を吹きかける。僕はその薄い口元にどきりとした。
「あの、なんか、成り行きでこんなことなっちゃったけど、家の方は大丈夫? 電話入れておいたらどう?」
午後八時を回った状況にして普通の言葉だろう。台風も近づいていて警報もチラホラ発令されている中で、夜になっても娘が帰らないとなれば親御さんは心配して当然だ。なんだったら父に車を出してもらって、家まで送ってもらったほうが早い。
「今日は家に誰もいないの」
僕が彼女の家に上がり込んでいて、そんな言葉を聞かされたら何らかの合図だと勘違いしてしまいそうだ。いや、する。
「え、旅行かなにか――」
「じゃあ、ご飯食べていったらどう?」と、母がいつの間にか会話に割り込んできていた。
うちはこんなに外交的な家庭だっただろうかと、過去の記憶をたどっている自分がいた。
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