第3話 キャラはわかっているから


二年間も同じクラスで居ていながら、僕は彼女と数える程しか話したことがない。壊滅的だなと、掌で目元を覆う。もちろんほかのクラスメートとは普通に話している。興味のない話でも話を合わせて上手くコミュニケーションを円滑にするよう心がけている。集団生活ってのはそういうもんだろう。


ただ、皆はいくら彼女が奇抜な格好をしてきたとしても、それに対してツッコミを入れるようなことも声をかけることもない。チラと視線を向けて挨拶をする程度だ。もう慣れたし、音羽のキャラはわかっているから。と言いたげに。


でも僕は興味があった。彼女がなぜそこまでしてコスチュームプレイをするのかという事に。何がどうしてあれを選んでいるのかという事に。素体の自分へのコンプレックスだろうか、とも。素の彼女のことがより知りたかった。


今日の音羽は細い首に大型犬の皮のごつい赤い首輪をつけていた。彼女にしては控えめだと思うが手首にも足首にも同様にブレスレット、アンクレットのようにお揃いのデザインの小型犬用の首輪がはめられている。これはこれでお洒落なんじゃないかと考えてみたりもする。


窓外は厚い雲からざんざんと降り続ける雨で、昼間なのに暗い教室内には電灯が点され、さながらもう夜が来たのかと思わされる光景だ。


こうして集団で電灯の下で黒板に向かっていると、夜の学習塾に通っていた頃を思いだす。


あの頃はまだ小学校高学年で、私立の中学を受験するとかそういう話が周囲で当たり前のように話されていた頃だった。僕もなんとなく、親もなんとなく、私学の中学に入ればそのままエスカレーターで高校、大学まで進学がスムーズにいくというふうに考えていた。今頑張れば勉強しなくても済むのだと。


もちろん中高大一貫校が、そんな虫のいい生徒側の理由で運営されている訳でないことは今ではわかっている。勉強しないでサボれば留年は平気でさせられるし、高校であろうが大学であろうが一定のレベルに達しない者を自動的に受け入れてくれるほど慈悲深いシステムでもない。あれは自社のハイスタンダード学生を生産するための施設なのだ。じっくりと精査し規格に満たない不良品を効率よく排除するために設けられた、工場側の利益に傾倒したシステムだ。


結果は? ご覧のとおり普通の県立高校生徒の僕が言うまでもないだろう。塾に通ったのもあの小学生のひと時だけだった。あとは緩い流れに従って市立中学、県立高校でなんとなく今まで過ごしてきた。それなりに、普通に平凡に。


そういえば音羽は地元から離れた地域から一人だけこの学校に通っている。彼女はここに至るまでどんな生き方をしてきたのだろうか。ふとそんなことを考えた。


同じ県の県立高校に通うなら、さほどに学力差も大きくはないし、当然ながら特別な特色があるわけでもない限り、自宅から近い学校を選ぶはずなのだ。


直接聞いた訳ではないが、彼女の家はふた駅向こうで通学に電車を使っている。駅からここまでは徒歩かバスだ。つまり仮装して来る日は学校だけでなく、公衆の面前でも晒しているということになる。今まで職質とかされなかったのだろうか?


放課後校舎の出口で、止む気配のない雨を見つめて憮然としていた。出がけに母親から、今日は雨が降るから傘を持っていきなさい、と言われたのを今更思い出していた。今朝は遅刻しかけで急いでいたし、曇ってはいたもののまさかこんな雨になるとは思っていなかったのだ。


僕は自転車で通学しているから傘をさして乗ってはいけないのだけど、まあ律儀にそれを守る生徒はほとんどいない。


次々と傘を開いて「ひゃあ!」と歓喜のような悲鳴とともに校門へと流れてゆく生徒を恨めしく感じながら、帰ってやることもないのだから、すこし小降りになるまで本でも読んでいようと、どこか明かりがある場所を校舎に戻って探してみることにした。


外の雨曇りに加え日が暮れてきて、校舎内も暗く沈んできていて人も見当たらない。明かりがついているのは大抵文化系クラブの部屋で、ドアは閉じられて、たいていはひっそりと活動に勤しんでいる。


わざわざドアを開いて読書のために間借りさせてもらうなんてずうずうしさは僕にはない。あとは雨でも関係ない体育館系の運動部の連中だ、そちらはいつもよりも威勢のいい声が上がっているような気がする――ああ、雨のせいか。いずれにしても本を読めるような環境じゃない。


 校舎の一階の一番奥に美術室がある。そちらも煌々と明かりがついており、そこなら広さもあるし邪魔にならないんじゃないかと勝手に期待して足を向ける。


美術室は画材の匂いがこもるなどの理由で、だいたいいつでもドアは開け放っている。運がよければクラスメートの美術部の三井が居残っているかもしれない。


そっと開いた美術室のドアから中を覗き込んでみる。室内は明るかったが誰もいない。


――いや、一人だけイーゼルに向かって一メートル四方くらいの絵を書いている女子生徒がいた。キャンバスに隠れてほとんど見えなかったが足元で女子だとわかった程度なのだが、別にこれなら邪魔することはないだろうと声をかけてみる。


「すみません、あのちょっと雨宿りで、本を読む場所を貸してほしいんですけど」


 キャンバスの向こう側にあるはずの顔は一度立ち上がりかけて上辺から首を伸ばしこちらを確認しようとしたが、バランスを崩して立ち損ない、再度横から体をくの字に折り曲げてようやく顔を現した。


 それは榊音羽だった。彼女は帰宅部じゃなかったのか? 僕の思い違いだったか。彼女は数秒僕の顔を見て、思い出したかのように言う。


「ああ、いいよ適当にどこでも使って、誰もいないから」音羽の声色は油臭い美術室の空気を僅かに震わせただけだったが、水のように透明で繊細でそれでいて油に混ざらない強さを感じた。教室で聞く彼女の声とは少し違って聞こえた。


 窓の外でざんざんと降る雨が激しさを増し、止む気配などない。聞こえる音は雨風とサッシが軋むかすかな音。音羽からも僕からも何の音も発しなかった。静かに時間だけが過ぎてゆく。外は完全に日が落ちて真っ暗だ。


 絵を描くという作業はこんなにも静かなものなんだと、音羽の方をちらりと見る。彼女は相変わらずキャンバスに向かったままで姿は見えない。こちらを気にも止めていない様子だ。唯一見える両足首には昼間に見た赤い革の首輪がまだあった。きっと首についた輪もそのままだろう。


 思えば音羽の奇行に僕も高橋も、それにクラスのみんなも随分と慣れたように思う。音羽は受け入れられている。変人だけど変人として存在を確立している。そう捉えてもいいのだろう。


 さて、僕はどうなのだろうと考え込んでしまう。


僕はこの学校、いや、クラスの中でも自分を表す代名詞を持っているだろうか。尾崎のようなサッカー部のエース、高橋のようにラガーマン、絵描きの三井、変人の音羽……ほかにもいろんな特技や特徴を持った奴がいる。


僕はなんだろうか。誰にも“鴻上くんといえば”と言われたことはない。自己アピールというのがとても苦手だ。なにか特別なことができなければアピールできない。見た目が特徴的ならそれでも良かったのだけど、特に僕を形容する言葉もない。


本は人よりよく読んでいる方かもしれないけど、休み時間になったら必ずそうしているわけでもない。学校にいるときはコミュニケーションを大事にしようとおもっているから。だから人間関係から解放された放課後にしか読書の時間を設けていない。皆と一緒にいるときは皆に合わせる。子供の時に母親からそうやってよく言われた。


普通の鴻上。いや、スタンダードがあってこそスペシャルは際立つ。皆がカスタマイズされてしまえば、すごいこともすごくなくなるではないか、と。考えるだけで虚しい。頭の中で文章に変換して更に嫌になった。


ひどい雨だ。そういえば二日ほど前台風が近づいているとか天気予報で見たような気がする。この雨はその影響だろうか。窓の外はとっぷりと日が暮れて真っ暗だ。もう七時を回っている。


ページを繰るも、さっきからまるで頭に入っていないことに気づいた。ただ字を読んでいただけだった。


ため息をついて本を閉じた。広い美術室に僕と音羽の二人きり。だけどその距離は五メートルは離れていた。会話をする距離でもない。それに集中して絵を書いている相手に話しかけるなんて気が引ける。僕だって本を読んでいる時には話しかけられたくない。


それでも座を辞すことくらいは告げなければ失礼だと、座ったまま彼女の方に体を向ける。僕が口を開こうと首を伸ばしたとき、彼女と視線が合った。


「鴻上くん、あたしそろそろ帰るけど。どうする?」


 俺も帰るよ、と席を立つ。もっともここに僕だけが居残ったとて、どうにも勝手がわからないから彼女と一緒に退室するより仕方ないからだが。


そそくさと本をカバンに仕舞いながら、場所を借りたことのお礼の代わりに「なにか手伝おうか?」と、美術室を閉める手伝いを買って出る。しかし「ありがと、でも片付けるのはあたしの荷物だけだからいいよ」と、手際よく油絵具の用具を片付けてゆく彼女をぼんやりと見ながら、僕は彼女を待つような格好になった。


「榊は美術部だったっけ?」三井の口から彼女の話など聞いたことがないから不思議に思って訊いた。


「ううん、美術の先生に断って場所を借りてるだけ」彼女はそう言いながら、描き上げたキャンバスをイーゼルごと持ち上げて教室の隅の方に移す。その時に初めて彼女が描いていた絵が見えた。


 音羽が描いていたのは自身の、音羽の自画像だった。


 なんどもなんども塗り重ねたような重厚な絵の具が画面いっぱいに乗せられている。顔は正面から描かれている。鏡を見て描いたのだろうか。


「その絵は……完成?」思わず月並みなことを訊いてしまう。だが彼女は「さあ、どうだろうね?」と少し笑う。


 完成はない、完成はすなわち死である。そんな高尚な理念のもとであの絵は描かれているのだろうか。音羽の笑みは見下すかのような視線とともに僕に向けられていた。いや、僕のことを見下しているというより、世間を、社会を、世界を見下している、そんなふうに思えた。


「なんで、美術部には入らないの?」間が持たず訊いてしまう。


「なんで、絵を描いていたら美術部にならなきゃいけないの?」確かに、至言だ。そして音羽は続ける「あたしが絵を描いてるのって変に思う?」


 いいや、そんなことはない、とても自然に見えた。と、僕は答えた。


「電気消すよ?」


「う、うん」


「傘は? 持ってるの?」


 持ってたらこんなとこで雨宿りしていない。


「あたしも持ってない。じゃ、いこっか?」


 どこへだよ? と問う前に音羽は僕の袖を掴んで引っ張った。


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