第6話 少しばかりのエクスキューズ
ええと、何処から話すべきか。結局音羽はあの日うちに泊まった。明日も学校に行かなきゃならないのなら同じことだと、母と妹が強く音羽を引き留めたためだ。もちろん寝床は僕とは別、妹の部屋で午前二時まで仲良く女子トークをしていた。
というのは、僕が隣の部屋で寝付けないまま書きかけの小説に向かっていたからだ。その日の晩に書いた僕の文章は乱れに乱れ、結局翌日そのあまりに恥ずかしい真夜中の三千文字をすべて破棄する羽目になった。
ちなみにあの日以降も妹と音羽は仲がいい。
その後も僕は静かな場所を求めて美術室に読書スペースを間借りした。今まで気にもしなかったが、美術室の窓からは大グラウンドのひな壇がよく見えた。
読む本がなくても放課後に美術室に顔を出すのが日課になった。美術部の部員がいる時もあったけど、遅めになると大抵は音羽しか残っていなかった。美術室には暖房もあったからそれも有難かった。
僕と彼女の美術室での距離感は絶妙に開いている。お互い会話は必要ないからそれでいい。視界の端にお互いの姿が見えればそれでよかった。
誰が何のためにこんなシナリオを描いたのか? なんて僕は有頂天でいたわけじゃない。僕らがこんな風になるまでには少しばかりのエクスキューズ(いいわけ)が必要だろう。
「昨日も訊きかけたんだけどさ」僕は意を決して音羽に告げた。
音羽はお世話になったお礼に菓子折りを届けると言って、翌日僕らは再び自宅への帰路を共にしていた。今日の音羽はスタンダードで、装飾は何もない。
「あたしも訊こうと思ってた」
「は?」
「なんであの時あたしの手を握ったの?」
「え? えと、あれは……なんとなく、つい……」っていうかお前だって握ったじゃないか。それに先に質問しようとしたのは僕だ。
「あたしは、君のことが好きだと思ったから握った」
言われた言葉の意味がほとんど理解できなかった。好きって、そんなに簡単に? そんなに簡単に思えるのか? 嵐の件(くだり)からの、ただの“つり橋効果”じゃないのか? そう考えるほうが極自然だ。
我ながら“つり橋効果”を説明できてしまう自分が恨めしい。そしてそれがかりそめの感情であることも。
「多分みんなが訊きたいことでしょうね、鴻上君があたしに訊きたいことって」
僕の思惟をよそに音羽は口を開く。さっきの話はもう終わり?
「え、と。そうだな、たぶんみんな思ってることだ。君が入学してからの目立つ行動、あれは――」僕は言葉を選んでいた。なんかそれが卑怯に感じた。それを読み取られてすかさず音羽に突き刺される。
「変な格好――って言えばいいのに」
音羽は歯を見せた笑顔を振り向けた。僕はバツが悪くなり目を強引に逸らすしかない。
「中学時代ね、友達いなかった。あたし」
彼女には前振りというものがない。何をするのも何を言うのも予測がつかない。だから誰でも驚く。誰かに判ってもらおうという気がないようにすら思える。それは一種の脅迫、いや、テロに近い。それを突き付けられるものは何、何故という質意を奪われる。
人は予測不能、あるいは理解不能な訳の分からないものを目にすると思考が停止する。ただ異物であるという判断力だけは生きており、必ず回避行動をとる。
それは野生動物が備える能力だ。危険かどうかわからなくとも、とりあえず危険だと認定することはリスク回避でもある。触れない関わらない逃げる。それが出来なければ、深く追求しない、優しい目で見守る、訳は訊かない、憶測で消化する。自身らに害が為されなければ、異質の存在として定義して分類する。
「だから」
「だから?」
「君が思った通りよ、そういうこと」
ちなみに彼女は読心術の使い手でも、テレパスでもなんでもない。つまりどういうことかというと、こういう事だ。
彼女は中学時代に一人の友達も出来なかった。いや、いたけども居なくなった。彼女の前から友達がいなくなったのはほんの些細な事だ。有名な絵画展で賞を取った。中学生主体の大きな賞だったそうだ。僕には詳しくは解らないんだけど、とにかくすごい事だったらしい。
それが彼女が美術部にでも属していたなら話は少し違ったのかもしれない。だが彼女はただ普通に家で趣味で仕上げていただけだった。コンクールには彼女の中学の美術部が総力を挙げて取り組んでいたそうだ。割と地元でもレベルの高い美術部だったそうだ。
そこに横紙破りで無名の榊音羽が入賞した。これに美術部員を中心に妬みが生まれ、広がり、当初入賞を喜んでくれていた数少ない友達までもが音羽の傍から離れだした。美術の教師までもが彼女を目の仇のように見ていたというのだから呆れたものだ。まあ沽券にかかわるってやつか。
とにかく、いわれのない迫害を受け、音羽は孤立させられた。この時のショックは彼女に地元高校への進学を諦めさせた。もともと自由な気風の榊家であった所為もあり、両親も彼女が思うように出来るならばと、注意も反対もされなかった。
この学校に来てからも音羽はすぐに美術部には入らなかった。同じ轍を踏むまいと彼女は一策を講じた。
美術部にも属さないで、何もできないようなふりをして周囲と同調しなかった、予定調和の中に居なかった。そんな後出しジャンケンでズルをしたと言われるくらいなら、最初からそうみられた方がましだと。
だれも近づかなければいい。それでも構わないと。自分は奇人変人だから関わらなくてもよい、まともに受け答えしなくてもよい、異物だと考えて思考を止めればよい。その代わり自分がすることには口出しをするな、文句も言うな、そういった諦観から“彼女”は生まれた。
馬鹿にされ、蔑まれ、避けられるのも覚悟の上だった。
「正直面倒だって思った。とやかく言われるのも過去の実績を掘り返されるのも、足並み揃えて行進するのも。容姿で印象でどう思われようが、その分好きにできるならそのほうがいい、ってね」
つまり自身の自衛のために彼女がとった行動が、アレだった。
「だけどね、やってみたら本当はどこの誰でも同じような反応をするのかもしれないって気づいた。みんな、この学校の人たちは私を見て驚きはしても驚いた顔をしないように努力した。傷つかないように」
「別に、気遣ったって訳じゃ……」
「ないよね。陰で言われてるのは判ってた。彼らは気遣っているふりをして、それ以上関わりたくなかったのね。自分が傷つくのを恐れるあまり“少し変わってるけどあなたは普通で、みんなとそれほど変わらないのだから気にしなくてもいい、私たちは外見で人を判断するような真似は決してしないから、だから安心して。だって私たちはクラスメートなんだから”。だから、最高のおもてなしをしたまでの事。最高の表ナシは、転じれば最低の裏アリってことよね」
大人になれば心を包み隠すのが上手くなる。音羽が読み切れなかったのは、中学と高校では高校生の方が年齢が上になるのと、方々の校区から人が集まってくるという多様性であり、そこに今までのような馴れ合いを超えた社会性を求められるという所だ。
「そういう展開になるとは思ってなかったな。だから最初の方は意地になってより過激に自己演出をエスカレートしてみたりしたけど、そのうち自分が道化になっていることに気づいた。あれは虚しかったなぁ」と、音羽はからからと笑う。
器は広いが、懐は深くない。それが社会というものだと僕も薄々は気づきだしている。
「で、だんだん飽きてきたから?」
「そ、飽きてきた。面倒にもなった。だから気が向いたときにしかしなくなったし、逆に今までとのギャップが彼らには新鮮だったみたい。勝手よねぇ?」
冷静になれ、と僕の心が疼く。音羽の理屈に傾きかけている自分を律しろ、勝手なのはお前の方だと。
だが、結局のところ学校はどこか明るくなった。彼女がハードルを下げたせいで女子の恰好がどこか華々しくなった。おまけにスカートも短くなった。感謝すべきか?
家の近くの公園で話していたらいつの間にか日が暮れて、ベンチの周辺以外、あたりは暗闇が支配していた。あまり遅くなっては失礼だと、音羽は僕をひっぱり自宅へと走った。さすがに二夜連続でという事にはならなったが、音羽はお礼の菓子折りを渡し、とても礼儀正しく挨拶をして、僕の家からバス通りへと歩いて行った。
もちろんその後、母と妹から強引に玄関から締め出されて、僕は音羽の背中を追うことになった。なんでだよ。
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