大晴小春の動じない日々。
はぎわら千歳。
小春と、しこり。
ひらっ、ひら。
そよ風にのって、心無い誰かに捨てられたレシートが宙を舞う。そよそよと通りすぎてゆく風はまだすこーし冷たく、けれど、くすぐる春の予感。
それは、もうすぐそこまで来ている暖かな日だまりみたいな季節を想像させ、そして、もどかしさを感じさせた。
早く来ないかな。ああ、早く来ないかな。長いこと凍結した、自分で無意識のうちに凍結させてしまったものを、溶かしてくれる季節が。
○小春
覚醒と共に跳ね上がるようにベットから起きた。時間がない。でも煙草は吸いたい。あたしは乱れた髪もそのままに、自分の部屋をどたばたと飛び出した。
「おうーー!」
リビングの扉を前にして、自分が下着姿だった事に気付き、慌てて部屋に戻る。いつの間に脱いだんだあたしは!
べつにこのままでも良いんだけど、お父さんが腰を抜かしかねない。
スキニーにお気に入りの緑のシャツ。その上に薄手のパーカーを羽織って、さあ、準備オッケーだ。
扉を開けて、リビングに入ると、目の前を週刊プロレスの今週号が通り過ぎた。ひっ、っと声が出そうになる。雑誌の飛んでいった先で、お父さんの軽い悲鳴が聞こえてきた。
「なに? なんなの!」
つい、強い口調で言ってしまう。寝起きに半裸の筋肉など見たくない。それに当たっていたらどうするのだ。
「聞いてくれよ。小春」
「ちょっと、聞いてよ。小春ちゃん」
そんなあたしにはお構いなしに、左右から同時に発せられる弁明の声。あたしは溜め息をついた。何事もなかったようにキッチンに向かい、牛乳パックを取り出すと、それを一気に飲み干す。
朝からやってられない。夫婦喧嘩なんか犬も小春も食いません。あたしは、キッチンに置いてある鳥の形の灰皿と銀色と白にてらてら光る煙草の箱を持っていく。小さな庭に面した大きな窓を開けて、すみっこに腰かけた。
さあ、なにもかも忘れよう。睡眠ってさ、忘れるためにあるんだ。人生ってまだまだ続くのよ。
あたしは、煙草の箱を開けて、煙草の端を口でつまみ上げるようにして取り出した。そのままくわえて、箱に押し込んでいたジッポライターで火をつける。
深く、吸い込んで肺の奥に芳しい煙を取り込み、少し、そのままで。そして、大きく遠くの方へ煙を吐き出した。紫煙を散らかしていった風が、あたしの短い髪の寝癖をさらさらとゆらした。目を細め、空を見上げる。
おはようございます。あたしの名前は大晴小春。芸人みたいな名前ですが、あたしはそこそこ気に入っています。
庭付き一戸建て。お父さんは独立したばかりだけど弁護士で、優しいお母さんと三人家族。なに不自由なく暮らしてきて、これからものんびりと暮らしていく。それでいい。それがいい。だって、世界は優しい。
「小春。もうすぐ誕生日だったな?」
部屋の中からお父さんの声がした。誕生日。そう、もうちょっとであたしは27になる。まだ生きている。そう、平然と生きている。あたしは、乱雑に煙草を灰皿に擦り付けて、火を揉み消した。立ち上がって、窓を閉める。
『そうだけど』とあたしは言う。あたしの返事に、プレゼントがどうとかどこかに行こうかとか、ごにょごにょと言っているのが聞こえた。
「うん、ちょうどお休みだから、家族で過ごそう」
はにかんで、あたしは言った。
洗面台に行き、簡単に化粧。そして寝癖を撫で付けて、出掛ける準備をする。待ち合わせの時間はすぐそこまで迫ってきていた。
最後に、鏡の前で口の両端を吊り上げ、にまっと笑顔を作った。大丈夫。あたしは強い。
○小春
自転車を停めて、駅の改札に着くと、彼女は思いっきりの笑顔で手を降ってきた。それを見つけて、あたしはふと立ち止まる。なんとも形容しがたい感情が一瞬込み上げてくる。身体中がとろけるような感情。緊張と不安が吹き飛んでしまった。溜め息もつけない。
「どうしたの?」
気付いたら目の前に彼女の顔があった。長い髪をサイドテールにしている。大きな垂れ目に大きな涙袋。オレンジのチークが可愛らしい。
高校、大学の同級生。神庭深雪。みっちゃん。
「ん? んん、なんでもないよ。久し振りだね」
心配そうなみっちゃんに気付かれないように、平静を取り繕う。いや、どうしたんだろう。あたし。「ほんと?」と、少し訝しい顔でこっちを見つめていたみっちゃんも、安心したのか笑顔を向けてくれた。
「久し振りじゃないでしょー。先週会ったじゃない」
みっちゃんの言葉にあたしは笑う。
「まあまあ、さ、なに食べよっか?朝ごはん食べてないからお腹ぺっこぺこだよ」
並んで、デパートに向かって歩きながらお腹をさすって言う。
「どうせ、寝坊したんでしょ。うーん、あれ。あそこのランチ食べてみようよ」
高くはない。でも甘くて耳に残るみっちゃんの声が心地いい。あたしは首を縦に振り、賛成する。何を言われても反対する気はないのだから。
○小春
「えっ?」
ランチセットのトマトスープの赤い海に、ハンバーグの大きい切れ端がぼとんと落っこちた。飛び散った先に赤い濁った模様ができる。あたしのお気に入りの緑のシャツにも飛んでいて、濁った染みができた。
目の前のみっちゃんは慌てて濡れナプキンを差し出してくる。あたしは生返事で返し、それを受け取った。
「え、なんだって?」
「だからね、わたし結婚するの」
結婚?それは結構。いや、結婚?みっちゃんが?え、どうしよう。いや、何が?でも、言葉が出てこない。
「はるちゃん。わたしが結婚するの、喜んでくれないの?」
みっちゃんが今にも泣きそうな顔をしていた。あたしは慌てて首を振り、「ううん、おめでとう」と声を絞り出した。出てきたのは、酷く掠れた声だった。
それで笑顔になってくれたみっちゃんは、マシンガンとばかりに話しだした。プロポーズの経緯。彼氏ののろけ話。式はどうする。誰を呼ぶ。食事はどうで、ドレスはこんなのは良い。とか。
うんうん、と頷くあたしは、とても複雑な気持ちで一杯になり、今すぐにでも走ってお家に帰りたくてしょうがなかった。それと同時に、腹立たしさが込み上げる。どうして素直に祝福してあげられないのか。親友のお祝い事。それもとても大きな。喜ばしいこと。なんですぐにおめでとうと言ってあげられなかったんだろう?
あたしは、冷めきって更に濁った真っ赤なスープをスプーンでかき回し、挽き肉の残骸になったハンバーグの切れ端をすりつぶしながら、とても微妙な笑顔で、首を縦に降り続けていた。
大晴小春の動じない日々。 はぎわら千歳。 @Kuroneko_chitose
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