Chapter2―episode27
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その夜、ノアはタンブラーを片手にキッチンへと向かっていた。基本的に夜型で不規則な生活を送る彼には、夜中のカフェインと糖分は欠かせない。味覚への刺激が強いコーヒーと、出来ればルカがつくった昼間のお菓子がキッチンの戸棚に残っているのが望ましいが、なくても別段不都合はない。むしろ戸棚に売るほど残っている紅茶のほうがカフェインが多く含まれているから、彼の目的からすればコーヒーよりそちらの方がいいのだが、生憎と彼は紅茶を淹れるのが下手だった。渋い紅茶を飲むことになるくらいなら淹れる人間を選ばないインスタントコーヒーのほうを選ぶのがノアという少年なのである。
そういうわけで、薄暗い院内を迷いなく進みキッチンにたどり着いた彼は、そこから明かりが漏れていることに気がついた。覗いてみれば、背の高い青年が戸棚の中をひっくり返して整理しているところだった。物を出すというより片っ端から落としていると言ったほうが正しい気さえする有様に、ノアは深々とため息をついた。やはり、どうしてこんな雑な性格なのにあんな繊細なお菓子を作れるのか疑問である。
「……まだ起きてたんですか」
そう声をかけると、ルカはびくっと肩を震わせてこちらを見た。その拍子に手を伸ばしていたインスタントコーヒーの缶が彼の手から滑り落ちる。ノアが手を伸ばしかけたときには遅く、大目的であったコーヒーは見るも無惨に白い床にぶちまかれた。ノアはまた深くため息をついて、ルカは慌てて右往左往し、缶を思いっきり踏んで転んだ。
「……ルカさん……ギャグの練習なら外でやってください」
「ギャグじゃないよ!キッチンの整理をしようと思ったんだよ!」
「何処が整理ですか!これじゃあ逆効果ですよ!」
ノアの言葉に、ルカは肩を落とした。それはまるで主人にきつく叱られた犬のようで、ぶちまかれたコーヒーまみれだといっそう悲壮感が漂う。ノアはうっと言葉に詰まった後、ややあってからタンブラーをテーブルに置いて彼の顔を見た。クロムほどではないが、どうも自分も彼のこの表情には弱い。他人のこと言えないじゃねえか、と頭の片隅でクロムが笑ったが、それは綺麗に無視した。
「……とりあえず、その粉片付けましょう。仕方がないので、これを片付けるくらいは手伝います」
思わぬ申し出に、ルカは驚いてノアを見上げた。彼はその視線に不機嫌そうに眉をひそめたが、すぐに踵を返した。数分後、彼の腕には自動掃除機が抱えられていて、ノアは床にそれを置くと電源を入れた。夜更けには不似合いなポップな電子音が響き、平たい円形のフォルムをした掃除機は仕事を始めた。
ルカはその様子を見て、それからノアに視線を戻した。
「ごめんね、ノア……ほんとはコーヒーもらいに来たんでしょ?」
ノアは軽く肩をすくめて、そうですね、と応えた。そして、にやりと笑って付け足す。
「まあ……でも紅茶でも不都合はないですよ、ルカさんが淹れてくれるなら」
ルカはぱちぱちと数度瞬きしたあと、その言葉の意味するところを理解して満面の笑みを浮かべた。もちろん!と元気よく返事をした彼は、早速混沌としたテーブルから紅茶缶を探し出してそのふたを開けた。ノアはその動きを眺めながらルカに尋ねた。
「そもそも、なんでこんな時間に整理を?明るい時間にやればいいじゃないですか」
シュシュ……という湯気が立つ音がキッチンに響く。その音を聴きながら、ルカはどうして自分が整理を始めたのかを考えた。そういえば、どうしてだったろうか。
「うーん……なんかね、手を動かしていたくなってさ」
しばらく考え込んだ後に、結局そう言った。その答えは間違いではなかったが、正確な答えではなかった。しかし、ノアはふぅん、と相槌だけを打って、次いで嘆息した。
「……あなたの場合、それはお菓子作りだけにとどめておいたほうがいいと思いますけどね。いろいろ考えても」
ルカは、気をつけるよ、とだけ言うと、ふと真顔になってこの気難し屋で優しい少年に向き直った。
「それよりノア……早く寝ないとダメだよ?ノアは睡眠と食生活がちゃんとしないと大きくなれないってフランチェスカが前に言ってた!」
その瞬間、ぴしっと音を立ててノアの額には青筋が浮かんだ。
「うるっさいですね!余計なお世話です!」
「あっ、ごめんね!」
「いいですよ、あなたは笑顔で人の地雷踏み抜く天才ですからね!今更慣れっこです!」
案の定ノアは怒ってしまった。しばらく、二人で湯が沸く音に耳を傾ける。さすがに夜更けともなると大した音はせず、最後に沈黙に耐えきれなくなったのはノアのほうだった。
「……そういえば、ルカさん」
彼は自分よりいくらか背の高い、そそっかしくて気遣い屋の青年を見上げた。
「あの人……アリスさんに言いましたか?ご自分のことについて、何か」
その瞬間ルカが固まるのを見て、ノアは内心で驚いた。彼は自分の身の上について話すのを躊躇わないタイプかと思っていたが、案外そうではなかったらしい。あまり裏表のないルカにしては、他人に隠し事をしているのは珍しいことだった。
ちょうど、そのタイミングで湯が沸いた。ルカは黙ってティーバッグを沈め、タンブラーに注ぐ。それを受け取って、ノアは礼の代わりに彼に助言した。
「早めに言っておいたほうがいいですよ。どのみち明日には話さなきゃならなくなりますけど……まあ、それはあなたが決めることだ。僕はこれ以上は言いません」
ノアはそう言うと、ルカに背を向けてキッチンを後にしようとする。その小さな背中に、ルカはぽつりと言った。
「……うん、そうだね。ありがとう、ノア」
少年はどう返そうか逡巡した後、結局おやすみなさい、とだけ呟いて、今度こそキッチンを後にした。
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