Chapter2―episode22

その瞬間、その場には強烈な甘ったるい匂いが立ちこめた。いや、甘いという言葉では生易しい。ジャムをつくるときに立つ甘さに似ているが、今ここで発生しているのはそれを何十倍にも濃縮したような、はっきり言ってある種のガスに近いものだった。吸ったそばから気分が悪くなりそうだ。甘いものが嫌いな人ならなおさらつらいかもしれない。

ともかく、アリスは本能で口と鼻を袖口で押さえつけた。

「な、なにこれ………!?」

「ふふ、常々思っているけれどすごい威力ねぇ。応用すれば兵器利用ができるかもしれないわ。」

どこにそんなものを隠し持っていたのか、ちゃっかりとガスマスクを装備したミネッタが愉快げに言う。彼女とは対照的に、視界の隅ではクロムが壁に手をついて青い顔をしていた。

「あらあら、クロム?大丈夫?」

しゅこーしゅこー、と音を立てて息をする合間にミネッタが尋ねると、彼は恨めしげな目で笑った。

「……そんな完全防備で心配されてもな……くっそ……裏切り者め……どこからんなもん出してきやがった……。」

「私のポケットには魔法がかかってるのよ。これくらいのことはできなくっちゃね。」

茶目っ気たっぷりな台詞ではあるが、それで納得してしまいそうになるから恐ろしい。結局ガスマスクの出所を教えてくれることはなく、ミネッタはつかつかと部屋の中に入っていく。アリスもその背に続こうとして、すっかりバテてしまっている様子のクロムを振りかえった。

「……えっと、ほんとに大丈夫?」

「あー、いつものことだ……気にすんな。悪ぃが俺は中まで入れねぇ。甘ったるいのは苦手なんだ。」

「まぁ……これはその次元を超えている気がするけど。」

「違ぇねぇ。」

ふっと笑ったクロムが手近な長椅子に腰掛けるのを見届けたあと、アリスは意を決して部屋の中へと足を踏み入れた。扉を開け放っていたからか、それともとんでもないレベルの匂いに鼻が麻痺してしまったのかはわからないが、ともあれ先ほどよりは幾分匂いを気にしなくなっていた。

その部屋の中は、隅々まで手入れの行き届いた印象を受けるキッチンだった。〈ウィスタリア〉のキッチンのよう、とまではいかなかったが、一般のものにしてはとても設備がいいことはわかる。

そして、そのキッチンをいったりきたりしながら菓子作りに熱中していたのは、薄茶色の髪色をした青年、ルカだった。鼻歌交じりの彼は、クッキー生地をのせた天板をオーブンにのせたあと、こちらを振りかえって驚いたような表情を見せた。そして、にっこりと満面の笑みを浮かべた。

「アリスだ!君も来てくれたんだね!」

「えっと、うん。ミネッタに手伝って欲しいことがあるからって言われて、ここに来たんだけど……。」

「あっ、そうだったんだね!うんうん、お手伝いして欲しいことなら、いくつかあるよ!えっと………あ、あったあった。はい、どうぞ!」

そう言われて条件反射で受け取ったのは、少しくたびれた様子のカフェエプロンだった。年季がはいっているのか、結び紐がへたれている。

アリスが困惑気味にルカを見やると、彼は不思議そうに首をかしげる。その様子を見たミネッタは、アリスの隣でやれやれと首を振った。

「こらこら、ルカ?何を手伝って欲しいのか言ってあげなきゃだめじゃない。アリスちゃんが困ってるわ。」

「あっ……そっか、ごめんね。オレってバカだからさ。気が回らないんだ。」

ミネッタの言葉に頭をかきながら言ったルカは、気を取り直したように息をつくとアリスを見下ろした。

「アリスは“お茶会”の話はもう聞いた?」

「うん、聞いたわ。」

「そっか、なら話が早いや。アリスに手伝って欲しいことっていうのは、“お茶会”のためのお菓子を作ることなんだよ。……どうかな?」

アリスはその言葉にぱっと笑顔になった。それは、手伝わないというわけがない。

「もちろん、いいわ!手伝う!」

「やったね!それじゃあよろしくね!」

ミネッタも、その様子に少し安心したように微笑むと、ようやくガスマスクを外した。幾ばくか甘い香りも収まったようだ。

「それじゃあ、アリスちゃんはルカに任せるわね。」

「ミネッタもやってく?楽しいよ、お菓子作り。」

そう言うと、不思議な雰囲気の女医は口元に苦笑を滲ませた。

「もう……何度も言っているでしょう?私は細かい作業が苦手だもの。それに、ルカがつくるお菓子が食べたいから、その日一日を頑張っているのよ。自分でつくってしまっては意味がないわ。」

「そっか……それならとびっきりおいしいのつくらなくっちゃね!」

「ええ、楽しみにしてるわ。フロランタンは外さないでね。」

さりげなくリクエストをすると、ミネッタはアリスに目を向けた。

「じゃあ、アリスちゃん。また“お茶会”にね。もしルカとの作業で具合が悪くなったらいつでもそこのナースコールを押してちょうだいね。私かフランチェスカのどっちかは必ず出るから。」

見れば、たしかに壁のすみのほうに小さなスイッチが垂れ下がっていた。……ナースコールを念頭に置いておかなければならないほどのお菓子作りとは。いや、深く考えたほうが負けだろう。

アリスが一抹の不安を覚えながらもうなずくと、彼女は笑みを一つ残して今度こそ部屋を出ていった。

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