Chapter2―episode16
「うん、チェックメイトだね。」
そう言って、レーネは満足そうに笑った。あまりにも鮮やかで無駄のない、手品のようなその光景に、アリスが見惚れるというよりは呆気にとられていると、彼女の背後で何かがどっと倒れ込む音がした。
そちらを見ると、ちょうどクロムが見事な背負い投げを決めたところだった。男は背中からまともに叩きつけられて伸びていた。
「ったく……手加減の欠片もねぇな。」
クロムは床に落ちてしまっていた帽子を拾い上げてぱんぱんとそれをはたくと被り直した。それから、眉をつり上げて声を張った。
「おい、イヴ!どうせ見てやがんだろ!さっさと出てきやがれ!」
返事は、すぐに返ってきた。
「ひひひ……そんなに声を上げなくとも聞こえてるよ、クロムの坊主。」
スピーカー越しの、ややバウリングする声が部屋の中に響く。声質なのかひどくかすれていて、いっそう聞き取りにくい声だとアリスは思った。
その台詞に、クロムの顔が苦く歪む。
「坊主って言うんじゃねぇ。そんな歳なんざとっくに過ぎた。」
「昔から知ってりゃ、歳なんてもんは関係ないんだよ、生意気坊主。」
不意に、ばちん、とブレーカーが落ちる音がした。それと共に椅子を照らし出していた照明すらも消え、完全な闇が訪れる。
「っ?何……!」
身構えたアリスに、クロムが冷静な声音で応えてくれた。
「大丈夫だ。イヴはとにかく派手な演出が好きな婆さんなんだ。」
彼が言うや否や、再び部屋の明かりがついた。今度は椅子だけではなく、部屋全体の明かりが灯る。
そして、部屋の中央───置かれていた椅子には、一人の老婆が腰掛けていた。フード付きの外套をまとい、ぱさついた長い前髪の隙間からは紫色の瞳が片方だけ覗いている。にたにたと笑う口には、長い煙管を加えていた。不気味で底知れない印象を受ける老婆だった。
彼女は不機嫌なクロムを目の前にして、それから彼の足元で伸びた男を見て、浮かべていた笑みをひどく愉快そうなそれに変えた。
「やれやれ……これだけ叩きのめされちゃ、形無しだねぇ。敵襲をしかけて損したよ。」
彼女の言葉に笑い声を上げたのは、レーネだけだった。
「あはは、相変わらず物騒だねぇ、イヴ?」
「笑い事じゃねえだろ、レーネ……。」
すかさずツッコんだクロムに応えるものはなかった。
老婆───イヴは、がらがらとした声でひとしきり笑ったあと、紫煙をくゆらせながら口を開いた。
「相変わらずなのはあんたたちも同じだろう?〈ワンダーランド〉。まぁた派手に〈紅〉とドンパチやらかしたそうじゃあないか。」
「ふふっ、さすがに情報が早いなぁ。」
今日の天気でも話すかのような柔らかな声音で応えたレーネには目を向けることもなく、イヴはひたとその視線をアリスに向けた。強い興味を隠そうともしない視線に、アリスは無意識のうちに半歩身を引いていた。
「で?そこのお嬢ちゃんが噂のアリスかい?」
「!」
名前すら名乗っていないのに看破され、アリスは思わず身体を強張らせてしまった。さすがに予想外だったらしく、その隣ではクロムも一段と目を鋭くさせる。
「……イヴ。そいつをどこで聞いた。」
老婆は彼の警戒心の強い言葉を鼻で笑った。
「ふん、この程度で顔色変えるなんてまだまだケツが青いね、クロム。仮にこれが〈紅〉の諜報員だったり〈雪花〉のエージェントだったりしたら、あっという間にお縄さね。」
「………っ」
ぎり、と歯をかみしめたクロムに、イヴは深く煙を吸い込むと口と鼻から煙を吐き出しながら笑む。いい加減、煙で視界がうっすら霞んでいた。
「そう怖い顔をしなさんな。……あたしゃただ小耳に挟んだただけさ。〈紅〉がアリスという娘を追っているとね。」
情報屋は、くつくつと喉の奥で笑いながら言った。彼女に対して口を開いたのは、レーネだった。
「ふぅん?理由とかはキミのほうで掴んだりしてないの?ボクたち、キミなら知ってるかと思ってここまで来たんだけど?」
レーネは口元こそ笑っていたが、目は笑っていなかった。試すような、探るような目でイヴを見ていた。
彼女は肩をすくめて答えた。
「期待に応えられなくて悪いねえ。この件はあたしにもまだまだ掴めちゃいないのさ。」
それがどこまで本気なのか、アリスにはわからなかった。推し量るには彼女はあまりにも若く、こうした人物と渡り合う経験が足らなかった。
「むしろこっちが訊きたいくらいだよ、アリス?あの二大組織に追われてるなんて嬢ちゃん、そうそういないからねぇ。」
イヴは椅子から身を乗り出すようにしてアリスの顔を覗き込んでくる。紫眼に宿る光は「賢者」と銘打つ情報屋には程遠い、純粋な───そう、好奇心旺盛な子供のそれと同じだった。そのことが、アリスにはいびつに見えた。
そして、彼女の放った言葉にクロムもレーネも、もちろんアリスも耳を疑った。
「……待て、追っているのは〈紅の咆哮〉だけじゃねぇのか?」
クロムの刺すような言葉と視線が、全てを代弁していた。イヴは別段動じる様子も見せずに首肯する。
「見つけ次第殺すつもりでかかってきているのは、たしかに〈紅〉だが。何の目的かは知らないが、〈雪花〉もあんたの行方を追ってるよ、お嬢ちゃん。……ひひひ、人気者は違うねぇ。」
揶揄するイヴに、三人は沈黙せざるを得なかった。
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