Chapter2―episode13

建物はどれも先ほども見たような古びた雑居ビルと平屋が入り乱れている。路面は長らく整備されていないのがよくわかる砂利交じりのアスファルト。中間層部ではありえないくらいの喧噪と、ほぼ無法地帯といってもいいだろう空路。さまざまな屋台から立ち昇る、食欲をそそる食べ物の匂い。

そして、笑顔を浮かべて行き交う人々。

それは、アリスが知らなかった下層部の姿だった。

「……はい。正直、こんなに活気がある場所だとは思いませんでした。」

正直に答えたアリスに、レーネは黙ってうなずいた。それから、ちらりと上空を――もっと言えば、階層を隔てる高い壁を見やった。そっと盗み見たその横顔から、一瞬だけ笑みが消えたような気がしたのは気のせいだっただろうか。

「この社会はただでさえ他の階層への人の行き来が少ないから、他の階層がどんなふうになっているのか知らないまま死んでいく人間も多い。」

だから、と彼はすぐにアリスに視線を戻して続けた。その口の端には、すでに底の知れない笑みが戻っていた。

「そういう人間に比べたら、キミはある意味で幸運なのかもしれないよ?」

「……幸運?」

彼の口から飛び出たのは、今のアリスが置かれた状況とはあまりに不釣り合いな言葉だった。この人は、何を言っているのだろうか。ここに来たことを幸運と呼ぶのなら、それはクラウスやニコルが死んだこと、〈ウィスタリア〉を失くしたこと、命を狙われているということを、遠まわしに肯定していることになる。

疑念の眼差しで見つめられているのがわかったのだろう、レーネは苦笑を浮かべると肩をすくめた。

「おっと……言葉が悪かったかな。じゃあ、こう言い換えようか。」

彼はおもむろに身体ごとこちらに向き直ると、無造作に手を振った。すると、どこから現れたのか、その骨ばった細い指先には一枚のカードが挟まれていた。疑念よりも驚きが勝ってしまって思わず目を丸くしたアリスに、レーネはにこりと笑った。

「簡単な手品だよ。ボクはこういうのが得意なんだ。」

そして、手にしたカードをアリスへ向けて差し出す。黒い紙面には、流麗な金色の文字でこう書かれていた。

「“すべての可能性は、キミの手の中にある”……?」

意味が解らずにいると、レーネは笑みを深めて口を開いた。

「キミの意図しないものであっても、キミがここにいることはたくさんあったはずの何らかの可能性の糸を手繰った結果だ。なら、これからキミがどんな未来を掴みとるのかだってそれと同じ。数百、数千……いや、それ以上かもしれないありとあらゆる可能性は、今、キミの掌の中にある。少なくとも、ボクはそう思ってる。」

憶えていて、と不思議な雰囲気の青年は、その雰囲気に違わないミステリアスな笑みを湛えて続けた。

「これは、ボクからのちょっとしたアドバイスだよ。ボクの勘が正しければ、キミは持ち得るすべての可能性の中でも最高の未来を引き寄せられる女の子だ。」

嫌にはっきりと言い切る彼に、アリスは気が付けば質問していた。

「……自信たっぷりに言ってますけど、自信あるんですか?」

「ふふ―――」

レーネは、器用に片目を閉じた。黄色いほうの瞳が、きらりと光った気がした。

「ボクの勘はね、外れないんだよ。」

このときの彼の表情は、笑っているのにどこか哀しそうにも見えて。

まるで、昔一度だけ中間層部で見たサーカスの道化師のようだと思った。

しかし、どうしてそんなことを思ったのかを考える前にクロムが帰ってきて、彼が買ってきてくれたホットドッグを食べているうちに、胸の内に生まれた疑問は霧散してしまったのだった。

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