Chapter 1—episode8
いったん自分の部屋に帰ってから端末とキャッシュカードという最低限の荷物を持ってすぐに踵を返す。店の裏手から外に出ると、そのまま右手に折れる。人一人がやっと通れるような細い路地を慣れた調子で歩くと、突然ぱっと視界が開けた。
まず目に飛び込んできたのは、高いビル。行き交う人々のほとんどはそれぞれの端末を操作している。上を見上げれば、宙に浮かぶ標識の間を、
それにつられるように、アリスは中間層部の中心へ目を向けた。その行き着く先には、かつて栄華を誇った上層部を支える鋼鉄の壁がある。空の蒼には似つかわしくない、武骨な鋼の色。〈災厄〉以後は一部の人間を除いて立ち入りを許されなくなってしまった廃墟の街を支えるその壁は、どこか虚しさを感じさせる。アリスはそんなことを思いながらそっと視線を前に戻した。
林立する高層ビル。その間を縫うように、しかし整然と飛び交うエアバイク。この光景は、かつてはゼルトザームの中心部――シティと呼ばれた場所で当たり前に見られたものだという。しかし、便利で安心安全な暮らしを人工知能に頼っていたシティは〈災厄〉で壊滅的な被害を受けた。そして、それに替わって、中流層が住んでいた中間階層が整備されてきたのである。
道の端を歩きながら、アリスは目的の店を見つけた。彼女が行きつけとしているパティスリーは、〈ウィスタリア〉が店を構えている通りから一本隣の、この第12街区の目抜き通りにある。今日のように時間に余裕があるときは、いつも通っている。
ほどなくして、比較的背の低い、ガラス張りのビルが見えてきた。パティスリー 〈ライラック〉――そのビルの一階に入っている、雰囲気のいい店は今日も繁盛しているようだった。
店内に入ると、焼き立ての香ばしい匂いが鼻をくすぐる。端末を通じて特定のものしか買えない従来の販売方法と違い、トレイとトングを持って自分の目でさまざまなパンを選べるというスタイルが、人気の秘密らしい。
上機嫌でパンを選んでいると、店の奥から焼きたてのパンを持って出てきた青年店員に声をかけられた。幼馴染のアンガスだ。
「アリスじゃないか。いらっしゃい。」
「こんにちは、アンガス。今日のおすすめとかある?」
「今、僕が運んできたこのデニッシュが今日のおすすめさ。リンゴをたっぷり使った〈ライラック〉特製アップルデニッシュ。焼き立てだから最高にうまいよ。」
「ふふ、相変わらず売り込み上手だね。じゃ、買ってみようかな。」
「まいどあり。」
彼はにこにこと人のいい笑顔を浮かべて、持ってきたパンの山からひとつ、パンをトレイに乗せてくれた。
「そうだ、今度新メニューできるかも。キッシュなんだけど、よかったら今度おいでよ。」
「へえ?もしかして、またアリス考案の?」
「まあね。味は、一応おじさんにもしてもらったし、さっきロトとニコルさんにも試食してもらったから大丈夫だと思う。」
アリスの言葉に、アンガスは肩をすくめて苦笑した。
「やれやれ……君は本当にすごいなあ。僕なんて親父に駄目出しくらってばかりだから、尊敬するよ。」
「そんなことないわよ。親父さんはアンガスにいいパン職人になってほしいから厳しいんだと思うわ。」
「そう言ってくれると、嬉しいよ。」
それじゃ、と言って仕事に戻っていったアンガスの背中を見送った後、アリスは再びパン選びに取り掛かる。
(うーん、どれみてもおいしそうなんだよねー……。)
トングを片手に、悩みまくる。マーブル模様を描くチョコレートデニッシュ。サクサクしたクッキー生地がかかったレーズンパン。カリッと揚げられたカレーパンに、トマトソースが鮮やかなピザもある。
そうやって夢中になって選んでいたおかげで、アリスは周りに注意が及んでいなかった。
どん、という衝撃の後、どさっと何かが床に倒れた音がした。
「わ、ごめんなさい――」
振り返ったそこには、尻餅をついた少年の姿があった。アリスは慌ててかがみこんだ。
「ごめんね!?大丈夫!?」
「うん……だいじょうぶ。」
少年は、言葉少なにこくりとうなずいた。
一見すると、女の子に見えるほど整った中世的な顔立ちの少年だった。年齢は、7~8歳くらいだろうか。つやのある黒髪に、白に近い灰褐色の瞳が随分と印象的だった。
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