第壹話 捌節
「いや、それでいいのじゃあないか?」
「……ふへ?」
一瞬きょとんと河上君。何を言われたかも分かっていないように固まって。
「君は少し物事を難しく考えすぎだよ。いや、難しくというよりは犯罪的にというべきかな。まあ、つまりは探偵小説の読みすぎだ」
皮肉げに、おまけに愉快に呵呵と笑って骸惚先生。
けれども河上君は、未だ困惑から抜け出せず。ぽかんと口あけ、出る言葉は「はあ」とだけ。
「仮に玉川氏が犯人だと過程した場合、いろいろな疑問点に答えが出るじゃあないか。
例えば、誘拐なんてことを聞いて黙っていられない性格の魚正のお内儀だが、それを告げた相手が玉川氏だとすれば話は別だ。
父親が娘を連れてどこかへ行くという話なのだからね。それは誘拐でもなんでもない。
事件を知ったときの行動も、別に誘拐を想定した行動だったわけではなく、父親が連れ出したと思っていただけだろう。
それならば一家庭の問題で、騒ぎ立てるほどのものじゃあない。玉川夫人は精神的に参っていたという話だから、彼女を心配して家に付いていったわけだ。息子さんを玉川氏の元に向かわせたのは、万が一玉川氏以外の人物の犯行であった時を考えてのことだろうね。
これは、お内儀が一週間の間、事件を口外しなかった理由にもなる。
気にかけている家庭の問題なだけに、夫婦の間で何らかの解決がなされるまでは口を閉ざしていたのだろうさ。
それに、河上君が気にしていた時間的な猶予のなさも解決する。
玉川氏が連れ出したのであれば、食事を終えて仕事場に戻る時、一緒に連れて出ればいいだけだからね。夫人がそのことに気づかなかったのは、彼女自身の問題なのか、それとも玉川氏が妻に気づかれぬようにやったのかは定かではないが、夫人の日頃の様子は玉川氏が誰よりも知っているだろうから、妻に告げずに出たのは、玉川氏に隠す意図が多少なりともあってのことだったのだろう」
「ですが、なぜ玉川氏はそんなことをしたんでしょう? それに、わざわざ魚正のお内儀さんに告げた理由も分かりませんし……」
「なぜという問題は難しいな。それこそ想像ばかりになってしまう。
それを承知の上で推測すれば、妻と子の様子を見ていられなくなったといったあたりじゃあないかな。
お内儀の話からも、その二人があまりいい状態でなかったように思えるしね。そう考えると、あるいは玉川氏がお内儀に告げたのではなく、お内儀が玉川氏に告げたのかもしれない」
「魚正のおばさんが『母子を引き離せ』なんて言ったってこと?」
驚きの声を上げたのは涼嬢で。
「そんな馬鹿な」と顔を歪めるご令嬢に、チョイト苦笑の骸惚先生。
「そこまで直接的な言い方はしないだろう。でも、そうだね……『しばらくの間、別々のところに住まわせてみたらどうか』くらいは言っただろうかね。
実際、澄の話の中では、《思いあまって》玉川氏に相談しに行ったと言っている。単に夫人と娘のことが心配だと言うだけならば、別に思いあまる必要なんてないよ。あのお内儀のことだから、登美子嬢を預かってもいいくらいのことは言い出したかもしれない」
それは魚正のお内儀さんの顔を思い起こせば、「確かに」と思えることで。
「もうひとつよろしいですか、骸惚先生。
先ほど先生は、玉川さんが登美子ちゃんを連れて出たことを奥さんに隠す意図があったと仰っていましたけど、なんでわざわざ隠すような真似をしたンでしょう? 小生には、どうにも隠す利点が見当たらないンですが……」
「それこそ難しい問題だね。勝手な想像を口にしていいのならば、母子を別々に住まわせるというのは、母親にしてみれば自分が役立たずのように思えてしまうことかもしれない。玉川氏としては、精神的に参っていた妻にそのことを告げるのが忍びなかったのかもしれない」
「でもさ」涼嬢はとても納得がいかぬという風に。
「結局、自分がしっかりと見ていなかったせいで赤ちゃんがいなくなったってことになっちゃうんだから、余計に辛くならないかしら」
「そうだな。涼の言うことも道理だよ。だから、本当のところは僕にも分からないね」
くすくすと控えめな笑声が聞こえてきたのは、そんな折のこと。穏やかな、けれど何かを含んだ微笑を骸惚先生に向けていたのが澄夫人。
「殿方というのは、時折、妙な気の遣い方をなさるものですからね。ねえ、旦那様?」
「……僕に同意を求めないでくれ」
微笑みを向けられても、藪を突けば蛇が出るとでもいう風に、視線を逸らし合わせぬ骸惚先生。
知らん振りを決め込むように、袂から紙巻煙草を取り出して。
ゆっくり一服、ぷかりと一息。
「あ、そうだ。既に事件は解決しているッてことでしたけど、それって結局、どういった解決だったンでしょうか? 登美子ちゃんが無事に玉川家に戻ってきたということですかね?」
「可能性としては、登美子嬢がどこかの家に引き取られることになったとか、玉川夫妻が離婚を決めたとかも考えられるが……」
一度言葉を切って、ちらりと見たのは澄夫人。微笑を絶やさぬそのお姿を見て取って、頭を掻いて肩すくめ。
「まあ、それならば澄が話すとも思えないか。元通りの生活に戻ったというところかな。それで、実際のところはどうなんだい、澄」
「それはもちろん」
こくり頷き、ぐるり見渡す澄夫人。
「元通り家族仲良く暮らしておられるそうですわ」
そのお顔を見れば、誰の目にも《元通り》ではないということが見て取れて。
玉川家のお
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