第壹話 漆節
「結局のところ登美子ちゃんをどこかに連れて行ったのは誰なンでしょうか?」
「それに、魚正のお内儀さんが事件を知っていながら今日まで黙り通していた理由も分かりませんし……」
河上君が期待を込めた視線を骸惚先生に向けはしても、当の先生は「さてね」と肩をすくめるばかり。
「それこそ君の腕の見せ所じゃあないのかい?」
「うへっ? しょ、小生のですか?」
「僕にも思うところがないわけではないが、この場に真相を知る澄がいるのだからね。その前であれこれと推測を巡らしたところで無駄なことだよ」
「それは小生にとっても同じことでは……?」
「何を言っているんだい。僕は好きこのんで知恵働きをしているわけじゃあないが――」
その折りの骸惚先生の笑みは、なんとも意地悪く見えたもので。
「君はそういうことがしたいのだろう?」
それは周知の事実で今更否とも言えず。けれども骸惚先生は嫌うその行為、ご本人を前にして肯定するわけにも参らずに。どうしていいやらおろおろと。
「もう事件は何らかの解決をみているのだから、この場で君が何を言ったところで大した害にもなるまい。構わないからやってみるといいさ」
迷う彼氏に骸惚先生からのお言葉が。気を楽にさせるつもりなのか、はたまた単なる皮肉かは微妙なところではございますが。
「父様もこう言ってるんだし、思うようにやってみればいいんじゃない?」
「溌子も兄様のお考えを聞きたいです」
涼嬢に溌子嬢、二人のご令嬢からも言われれば、「よし、いっちょやってみるか」という気になるあたり、さすがにお調子者の河上君。
チョイト黙考、やがて考えがまとまったのか、「さて」とばかりに口開き。
「やはりこの事件の鍵になるのは、魚正のお内儀さんだと思うンです。改めて考えてみると、事件のあった時のお内儀さんの行動はチョイト奇妙です。
玉川さんの奥さんから登美子ちゃんがいなくなった話を聞いて、すぐに玉川さんに報せを走らせつつ、ご自身は奥さんと一緒に玉川家に行った。あるいは的確な行動だったのかもしれませんが、それは登美子ちゃんが誘拐されていた場合です。この時点ではまだ誘拐かどうかなンて分からなかったはずですから、玉川さんに報せるのはともかく、家で連絡を待つより登美子ちゃんを捜し回る方が普通だと思います」
「しかし、人間というのは常に冷静で正しい行動ができるとは限らないよ。まして異常事態なのだからね、少々奇妙な行動をとったからといって、不審というほどのことはあるまい」
「それはもちろんそうですが、そういう時にこそ性格が顕著に表れるものじゃァないでしょうか。お話を聞く限り、お内儀さんは玉川家のことを気にかけて時折お裾分けをしたり、奥さんや登美子ちゃんのことを玉川さんに相談したりと、良く言えば人がよく、悪く言えばお節介焼きで、思い立ったらすぐ行動する人のように思えました。そういう人が、ことが起きた時に《待つ》という行動をすること自体、奇妙であるようにも思えます」
「本来なら、その人物評が正しいのかどうかの検討が必要だろうが、今はひとまず納得しておこうか。もっとも、お内儀の人柄については僕も同意見だが」
にやりと笑って骸惚先生。つられて河上君もチョイト苦笑で。
「そのお内儀さんが、あえてお人柄に合わない行動をしたことには何かの理由があるはずです。その理由というのは……」
「お内儀が犯人だから――かい?」
「え、ええ……。誘拐を想定した行動をとったことからも、その時既に誘拐であることを知っていたからと考えられ……」
「結果として、お内儀さんが犯人だという結論に辿り着きます」
そこまで口にしたとこで、首を振って自ら否定の河上君。
「辿り着きますが、よくよく考えれば、やはり無理があるように思えます。
少なくとも、お内儀さんが犯人だと仮定した場合、魚正のご主人や息子さん、一家三人揃っての犯行でなければならなくなります。
実際にどうやって登美子ちゃんを玉川家から連れ出したのかと考えると、奥さんの目を盗んでこっそりやったということになるンじゃァないでしょうか。奥さんは《常に心ここにあらずといった様子で、一人にしておくといつまでも呆っとしていた》《目の前に立っても、声をかけるまで気付く様子もなかった》そうですので、そのことを知っている人なら難しくはありません。
ただ、気に掛かるのは、時間的な猶予のなさです。
事件が発覚したのは、《お昼を少し回ったくらいの頃》でしたね。一方で、玉川の旦那さんは、いつも昼に食事を食べに家に戻っていた。その時に登美子ちゃんがいなければ気付くでしょうから、登美子ちゃんがいなくなったのは、お昼からお昼を少し回ったくらいの時間の間ということになります。それが実際にはどれだけの時間だったのかは分かりません。もしかすると小生が考えている以上に余裕があったのかもしれませんが……数時間という単位ではなかったと思います。せいぜい一時間、ことによれば十分、二十分ということもありえたはずです。
事件が発覚した後、魚正のお内儀さんは玉川の奥さんと共に玉川家に、息子さんは玉川さんに報せに行った。残った魚正のご主人は、当然店番をしなくてはいけない。
すると――」
「すると、登美子嬢を見張る、あるいはどこかへ監禁しに行く人物がいないということだね」
「はい。事件の発生から今日までおよそ一週間、その間登美子ちゃんが玉川家にいなかったとして、気にかかってくるのは、やはり監禁場所です。
登美子ちゃんは《あまり泣き喚くほうでもなかったけれど、一度泣き始めるとそりゃあすごい大声》だったそうですから、登美子ちゃんの存在を隠し通すのも容易ではなかったように思えます。少なくとも、登美子ちゃんが泣き出しても玉川の奥さんの耳には届かない程度の距離までは引き離す必要があった。ですが、事件発生当時の魚正にはそれをできる人物がいない。例外といえるのは息子さん――えェと、勝吾郎くんでしたか――その子になります。勝吾郎くんが家を出る時に、一緒に登美子ちゃんを連れ、玉川さんのお仕事場までの間のどこかに隠してしまうというのが唯一の可能性であるように思えますが、まさか小学生にそんなことをさせるとも思えませんし、させる方も不安でしょう。
以上の点から、魚正のご一家には犯行の余地はないという結論になります」
「ふむ」と骸惚先生、一度は納得した風に頷きはするものの、
「外部の協力者という線は考えなかったのかい? 例えば魚正のお内儀が玉川家から登美子嬢を連れ出し、協力者に手渡す。そして、その協力者がどこかへ連れ去っていくという形だが」
骸惚先生から指摘され、「あっ」と声出す河上君。それはまさしく「考えても見なかった」という声で。
途端に頭を抱えて唸りだし。「あァ……」やら「うぅん」やら「えーと」やら。何やら必死で考え込んでいるのは一目瞭然。けれど、名案が浮かびそうにないのも一目瞭然。
やがてちらりと骸惚先生を盗み見て、口から出るのは言い訳めいた気弱な言葉。
「今のところそれを検討できるだけの材料がないので、この際あえて無視してしまうッってのはどうでしょう……?」
一瞬きょとんと骸惚先生。けれどすぐにも吹き出して。愉快そうに肩震わせて。
「なるほど。そう言われては、僕がこれ以上文句をつけるわけにはいかないね。まあ、魚正一家が犯人ではないというのは別の観点からも検討したことだから、その結論自体には文句もないしね」
「あ、ありがとうございます」
「ですが、魚正のお内儀さんは事件発生前から登美子ちゃんの誘拐を知っていた可能性があるのは確かで、何らかの形で事件に関与しているのも確かなはずです。はずなンですが……」
言葉を止めて河上君、頭を掻いて顰め面。肩を落としてため息で。
「どうにもそこからが分かりません。
犯人という直接的な形ではなく、事前に事件を知りえた理由として考えられるのは、あらかじめ犯人から告げられていたということでしょうか。ですが、聞く限りお内儀さんは玉川のご一家のことを非常に気にかけていたご様子で、同情的でもありました。それに、誘拐なんてことを聞いて黙っている性格とも思えませんし。
もちろん、お内儀さんと犯人との間に同情心を超える何かがあるのなら別の話ですが……」
言葉を濁す河上君に、骸惚先生は鷹揚に頷いて。
「まあ、それも現段階では検討するだけ無駄なことだね」
「そうなンですよねェ……。だとすると、小生にはもう何がなにやらサッパリですヨ。後はもう、玉川の旦那さんが犯人なのかとか、そんな考えしか出てきません」
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