第壹話 肆節


「何か考えでもあるのかい、河上君」


 誰しもが話に聞き入っていたその時に、突然の質問、骸惚先生。


 河上君はびくりと体を震わせて。しかし骸惚先生が気にかけるのも無理はなく。

 何しろこの彼氏、澄夫人のお話の途中から、ぎゅっと唇引き結び、沈思黙考考え込んで。顔に浮かべる表情は、重く沈んだ憂い顔。


「いえ、そんな。小生に考えなんてものは……」


 根が正直だと申すべきでございましょうか。河上君のその言葉、どう聞いたところで嘘偽り。

 表情かお口調ことばの双方で「何事かを考えついてしまった」と言っておりまして。自分でもそうと気付いたものか、慌てて汗掻き頭掻き。


「い、いや。何も確証のあることじゃあないですから。小生の妄想です、人に言えるようなことじゃァありませんヨ。ペラペラ余計なことを喋ってしまっては、色々な人にご迷惑をおかけすることになるかもしれませんし、また骸惚先生に叱られてしまいますからね」


 はは、と気弱げに愛想笑いの河上君。これまで幾度も事件に首を突っ込み引っかき回し、その都度骸惚先生のお叱りを受けた身としては、成長の跡が伺えるということなのかもしれませんが。


「こんな時に何言ってるのよ! 人殺しとかならともかく誘拐なのよ? 少しでも早く探し出してあげなきゃ奥さんも登美子ちゃんも可哀想じゃない。気付いたことがあるのならいいなさいよ」


 そう言う涼嬢の言もまた正論で。

 しかし河上君は沈痛な面持ちで。

 何度もゆっくり首振って。


「そう言うことじゃァないンだヨ。何て言うか……喋ったところでどうしようもないこととでも言うか……」

」と骸惚先生、逡巡する様子の河上君に、袂から煙草を出しつつさりげなく。口に銜えつつもはっきりと。


「河上君は狂言誘拐を疑っているわけだ」


 再びびくりと河上君、体を震わせ強ばらせ。

「わ、分かりますか?」


「そりゃあね」骸惚先生、紙巻き煙草に火を点けて。顔に浮かべるかすかな苦笑。

「じゃァ骸惚先生も同じようにお考えで?」

 訊ねる河上君はどこか期待に満ちた表情で。

 しかし骸惚先生、そっけなく。


「さてね。どこまで同じかは分からないよ。ためしに河上君の意見を聞かせてもらいたいものだね」

「へ? で、ですが……」


 事件に関わるな、口を出すなとは、常日頃から骸惚先生が戒めるところ。その骸惚先生がご自分から事件の話をしようというのも意外なことで。

 首を捻りつつも、先生がそう仰るならと口を開く河上君。


「えェと、ですね。まず、単純な営利目的の誘拐という線は薄いと思うンです。何しろ、ご縁日で一目見ただけの小生でもその玉川さんが生活にご苦労なさっているだろうことは分かりました。

 奥様がお聞きになった魚正のお内儀かみさんのお話の中でもその様子は伺えましたしね。子供を誘拐して身代金を要求するつもりなら、もう少し金の取れそうな家を狙うンじゃァないでしょうか」


「しかし、身代金だけが営利誘拐の目的でもあるまい。子供それ自体が商品となる可能性だってあるのじゃあないかい」


 骸惚先生の反論は、まるでその先を知っているかのよう、河上君の再反論を引き出すための言葉のようにも思え。

 案の定「承知している」とばかりに言葉を続ける河上君。


「ええ、もちろんですヨ。実際、拐かしや人さらいの話はよく人の噂にものぼるところです。

 やれ曲馬団に売られてしまうだとか、やれ角兵衛獅子にされてしまうだとか。

 嘘か本当か分かりませんが、神隠しにあった子供を中国で見かけたとか、京都で芸者になっていたなんて話もあるくらいです。


 これらすべてを信用するのも馬鹿馬鹿しいことですが、これだけ大勢の人の口にのぼるンですから、事実無根ということもないンでしょう。

 その噂に共通しているのは、攫われた子供はみな《働き手》になっているということです。逆に言えば、働き手となれるから攫われるということなのかもしれません。


 一方で、玉川さんのお嬢さん――登美子ちゃんでしたか――その子は昨年の夏頃に小生が見た時にはまだ生まれて間もない、生後数ヶ月ってところでした。今だって、満で数えたら二歳に満たない程度の年齢でしょう。

 とてもではありませんが働き手とはなり得ません。だとすれば、その意味でも営利目的とは考えづらいです」


「その点に関して異論はないが、狂言だと疑ったのはどうしてだい?」


 骸惚先生にそう問われ。

 河上君は申し訳なさそうに眉寄せて。

 居心地悪そうに頭を掻いて。


「実のところ完全な小生の予断です。

 単純な営利目的ではないにせよ、どこかに《利》は存在しているはずで、この場合、登美子ちゃんが拐かされて――いなくなって誰が一番得をするのだろうかと考えると、玉川さんご夫妻。

 特に奥さんのように思えてしまったンです」


「《口減らし》ということかい?」

 骸惚先生は苦い顔。それに頷く河上君も、まったく同じ渋面で。


「それもありますが……」言葉を濁す河上君。その渋面の向かう先は他でもない彼氏自身、こんなことを思いついてしまった自分への苦さであるようにも見えまして。


「ただ、それだけではないようにも思えます。

 奥様のお話を伺っていると、玉川さんの奥さんは育児に辛さを感じているように聞こえましたし、元々、精神的に不安定であるように見受けられました。

 だからというわけではありませんが、いっそ娘がいなくなってくれたほうがどれだけ楽だろうかと、つい考えてしまったのではないかと……」


 言い辛そうにしつつも河上君が一通りの語りを終えると、骸惚先生の口から漏れるは「ふむ」と呆れとも感心ともつかない嘆息で。


「河上君らしからぬ穿った意見だね」

「す、すみません……」


「いやいや。その点について責めるつもりは毛頭ないが、いくつか疑問点もある。

 君の意見を元にすれば、登美子嬢がいなくなること自体が目的であるわけだ。だとすれば、秘密裏に登美子嬢を捨てるなり殺すなり人買いの手に売り払うなりすればいいだけの話だろう。

 そこに玉川夫妻――いや、あえて玉川夫人と言っておこうか――彼女が拐しなぞという嘘をついた理由についてはどう考えているんだい」


 その問いに対する答えも河上君の中では明確で。

 けれども、それを口にするのを憚るようにしばしの沈黙、重い口。

 それでも己を見つめる先生の視線に押し負けて搾り出した暗い声。


「一言で言ってしまえば《世間体》だと思います」


「自ら育児を放棄したなんて話が広まってしまうと、周囲の風当たりも強いでしょうし、今後の生活にも支障が出るかもしれません。ただでさえ生活の苦しい玉川夫妻としては、これ以上状況を悪化させたくなかったンじゃァないでしょうか」

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