第壹話 參節
まいどあり、奥さん。今後ともご贔屓にね。
あ、そうだ奥さん。奥さんは玉川さんってご一家のことご存じ?
そうそう、ウチの裏手に住んでるご一家だよ。
ああ、そうだねえ。お嫁さんがきた時にちょっと話題になったものね。当時、十二とか三とかだろう?
いくらなんでも若すぎるんじゃないかってあたしだって思ったもんさ。
奥さんは……ああ、そう言えば奥さんも若い時分に嫁いできなすったんだったね。
え? そこまでは若くなかった?
でも確か、二十歳前に結婚なすったんだよね。あたしなんかは、この家に来たのは二十も半ば近くになってからのことだったからねえ、それに比べりゃあ充分に若いさ。
ちょいと! なんだいアンタ。
「奥さんは今でも充分にお若いですよ」なんて、見え見えのおべっか使って。
忘れてるようだから言わせてもらうけど、奥さんとあたしは同い年なんだよ。
あ!?
とても信じられないとはなんだい、信じられないとは!
ウチの勝吾郎と奥さんところの溌子ちゃんが同じ学年なのがその証拠じゃないか。
か、関係なくなんてないよ。同い年の子供がいるってのは、それだけ親同士も年齢が近いってことでしょうが。
ああ、もう! とにかくね、女同士の話に亭主が横から口挟むもんじゃないよ、まったく。
あら、ごめんよ奥さん。すっかり話が逸れちまったね。
そうそう。それで、その玉川さんのお嫁さん、みちよさんっていうんだけどね、これがちょっと困った子でねえ。
いや、悪い子じゃないんだよ?
ただ……ちょっと、変な癖があってね。癖って言っていいのか分からないんだけど、
それがちょっとやそっとじゃないんだって、奥さん。
心ここにあらずとでも言うのかねえ、そんな様子でさ、一人にしておくといつまで経っても呆っとしたままなんだよ、あの子。
あたしが目の前に立っても気付かないことなんてしょっちゅうで、声をかけると驚いたりするんだから。こっちの方が驚きだよ。
暗い顔して何か考え込んでるっていうか、前からそういうところはあったんだけどね、でもあそこまでひどくなったのは
登美子ちゃん? そうそう、玉川さんところのお嬢ちゃん。
去年の春先に生まれたから、満でちょうど一歳になったくらいだよ。
あたしがみちよさんのことを気にしだしたのも登美子ちゃんがいたからでさ、登美子ちゃんって普段はあんまり泣き喚く子じゃないんだけど、一度泣き始めるとそりゃあすごい大声でねえ。
ウチの勝坊もきかん坊で随分と手を焼かされたもんだけど、それに比べてもそりゃあすごいのなんのって。
奥さんところはどうだったんだい?
おやまあ、そう。涼嬢ちゃんはそんなころからお転婆だったかい。三つ子の魂なんとやらってやつかねえ。
正直、あたしだって余所様のことに口出しなんてしたくないけど……って、ちょいと奥さん、何を笑ってんだい。
そんなにお節介焼きに見えるかい?
まあ、そう言われるのも仕方がないかもしれないけど、でもね、これでも随分と我慢した方なんだよ。
みちよさんのこともそうだけど、旦那さん――玉川さんにも言いたいことの一つや二つはあるのさ。
奥さんは玉川さんのことは聞いてるかい?
ああ、そうそう。若いのに腕の良い鳶って話で、そりゃ結構なことだけどさ、それに加えて飲む打つ買うは当たり前ってのがくっついてきてね、みちよさんも相当泣かされたみたいなんだよ。
前にみちよさんがお薬師さまのご縁日でお面を売っていたのを知ってるかい?
あれもどうやら玉川さんが遊ぶ金ほしさにやらせてたみたいでね。
みちよさんがあんなになった元々の原因は玉川さんにあるんじゃないのかねえ。
でもまあ、改心したって言うのか、近頃は人が変わったみたいに真面目になったんだけど。
え?
さあ、さすがにあたしも理由までは分からないよ。
ただ、玉川さんが急に真面目になったのって、去年の大地震以来だからね。
滅茶苦茶になった町とか、そこらじゅうにあふれかえる死体とか見せられちゃうと、そりゃあ人も変わるかって気にもなるよ。
だけど、せっかく心を入れ替えたってのに、地震で鳶の元締めやらなんやら仕事を取り纏めていた人たちがみんな亡くなっててね、おかげで玉川さんは働く場所に困ってるみたいなんだよ。
今は、水道橋のほうの橋の工事に人足で出かけているみたいだけどね。
あたしも、いつまで続くのやらと思ってたけど、今のところは真面目に働いているみたいだよ。それに、みちよさんや登美子ちゃんのことも気にかけるようになったみたいで、毎日お昼には戻ってきて食事をすませてから、また働きに出てるんだよ。
ただねえ、震災のおかげで玉川さんは良くなったけど、みちよさんのほうは悪くなったみたいでね。
いつだったか、あんまりにも登美子ちゃんが泣くんで様子を見に行った時なんか驚いたよ。
いや、驚いたなんてもんじゃないね。
わんわん泣き喚く赤ん坊がすぐ傍にいるってのに、あやすどころか目を向けてもいないんだよ。
能面みたいな無表情な顔のまんま、外をぼーっと眺めて身動き一つしないんだ。
いい加減、文句の一つも言ってやろうと思って出て行ったんだけど、その姿を見た時になんだか恐ろしくなっちゃってねえ。
その時に、ああ、みちよさんは病気なんだなって思っちゃってさ。
いやいや、悪く言ってるつもりはないよ。もちろん、馬鹿にしているつもりもね。
ただ、病気って言ってもお医者様に診せてどうにかなるとも思えないから、あたしでも手助けできることがあればしてあげるのもいいんじゃないかって、そう思ったのさね。
お節介は承知の上で、店の余り物を捌いたり煮物にしたりして持って行ったりもしたし、登美子ちゃんの世話を見たりもしたよ。
でも、あんまり状態が変わるようでもなくてね、思いあまって玉川さんに相談しにいったりしたものさ。
そうしたら……そう、ちょうど一週間前のことだね。
あれは……お昼を少し回ったくらいの頃だったかな。ウチはいつもお昼をちょっと遅めに摂るんだけど、その日はまだ昼を済ませていなかったから、そんなに遅い時間ではなかったよ。
一人お客さんを送り出して、あたしがこの店先に立っていた時に、裏からみちよさんがすごい勢いで駆けて来たんだよ。随分と慌てた様子だったから、「どうしたんだ?」って訊いてみたら……。
驚くじゃないか、「登美子がいない、拐かされたかもしれない」なんて言うんだ。
もうあたしャ、驚いたも驚かないもなかったよ。
とにかく、そのままどこかへ駆けだしていきそうなみちよさんを引き留めて、まずは旦那さんに報せた方がいいって言ってね、報せにはウチの勝吾郎をやるからって、あたしはみちよさんと一緒に玉川のお宅で待ってることにしたのさ。
家に戻ってしばらくすると、みちよさんがひどく落ち込んじまってね。
玉川さんとか、玉川さんのご両親とかに申し訳ないって頭を抱えていたかと思えば、自分に親になる資格はなかったんだなんて言い出すし。
登美子ちゃんにもごめんなさいごめんなさいって何度も何度も謝ってて、見ていらんなかったよ。
それでもねえ……ほら、みちよさんは普段の様子が様子だったから、やっぱり登美子ちゃんのことは大切に思っていたんだなって分かって、申し訳ないんだけど正直言って安心したところもあったんだよねえ……。
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